2024年4月8日

そして 彼は見た;そして 彼は信じた — 何を見たのか ? 何を信じたのか ?

Caravaggio (1571-1610) : Incredulità di san Tommaso

そして 彼は見た;そして 彼は信じた 何を見たのか ? 何を信じたのか ?



聖イグナチオ教会における 復活の主日(20240331日)の 10:00 のミサの説教で,主任司祭 高祖敏明神父は,その日の福音朗読 (Jn 20,01-09) に関して,こう述べている:

何回 読んでみても よくわからないことが あります.ペトロとヨハネは[イェスの]墓に入り,「見て,信じた」と書かれてあります.彼らは 何を見て,何を信じたのでしょうか ? 今日の福音の最後 (v.09) には「イェスは 必ず 死者のなかから復活することになっている という 聖書の言葉を,二人は まだ 理解していなかったのである」と書かれてあります.ということは,彼らは まだ 主の復活を信じたわけではない.では,彼らは 何を信じたのか?

Jn 20,01-09 は,復活の主日の日中のミサで 毎年 朗読される箇所である.今年 喜寿を迎えようとしている 司祭が,その一節を 数え切れない回数 読んできたであろうにもかかわらず,そこには「よくわからないことがある」と問う しかも,復活の主日のミサ説教において,多数の会衆のまえで ;そのような彼の誠実さと真摯さに わたしは脱帽する.

問いを 特に,適切な問いを 措定することは,それに答えることよりも,はるかに難しい;あるいは,適切な問いを措定することは,まだ自覚されていない答えの予感なしには,不可能である.

わたし自身は,その箇所を やはり 幾度となく 読んできたが,彼のように疑問を感じたことは 今まで 一度も なかった.注意深く読む者と そうでない者との 差である.

高祖敏明神父の問いのおかげで,我々は,いくつかの気づきを得ることができる.以下に説明しよう.


見た そして 信じた


周知のように,Jn 20,01-09 においては こう物語られている:イェスが葬られた日から三日め,マリア マグダレーナは 彼の墓のところに来る;そして,墓の入口の石が除けられてあり,イェスの遺体がなくなっていることを 見る;そのことを 彼女は ペトロとヨハネに 知らせる.彼らは 墓に 駆けつける;ヨハネが先に到着するが,彼はペトロの到着を待つ;そして,まず ペトロが 空[から]の墓のなかへ入り,遺体を包んでいた布が残されてあるのを 見る;次いで,ヨハネも 墓のなかへ 入る.

問題は,最後のふたつの節 (vv.08-09) である.「聖書と典礼」に掲載されている邦訳(新共同訳)では,こう訳されてある:

8 それから,先に墓に着いたもう一人の弟子[ヨハネ]も 入って来て,見て,信じた.
9 イェスは 必ず 死者の中から復活することになっている という 聖書の言葉を,二人は まだ 理解していなかったのである.

その邦訳に欠陥があることに気づくために,我々は ギリシャ語の原文を見てみよう:

8 τότε οὖν εἰσῆλθεν καὶ ὁ ἄλλος μαθητὴς ὁ ἐλθὼν πρῶτος εἰς τὸ μνημεῖον καὶ εἶδεν καὶ ἐπίστευσεν·
9 οὐδέπω γὰρ ᾔδεισαν τὴν γραφὴν ὅτι δεῖ αὐτὸν ἐκ νεκρῶν ἀναστῆναι.

わたしは,より逐語的に こう翻訳する:

8 次いで,そのとき,もうひとりの弟子 彼は 最初に到着していた も,墓のなかへ 入った;そして,彼は 見た;そして,彼は 信じた.
9 なぜなら このゆえに:彼らは 聖書を[聖書にこう書かれてあることを]まだ知らなかった:すなわち,彼が死者たちのなかから立ちあがる[復活する]のは 必然的である.

ギリシャ語原文と新共同訳のテクストとを見比べるとき,我々は このことに気づく : v.09 原文の ふたつめの単語 γάρ[なぜなら ...のゆえに]が 新共同訳では 訳し落とされている;そして,新共同訳 (1987) だけでなく,新しい聖書協会共同訳 (2018) でも 古いバルバロ訳やフランシスコ会訳でも その語は 無視されている.2023年に岩波書店から出版された邦訳新約聖書の改訂版においては,それは「つまり」と訳されてはいるが,理由や原因を表現する接続詞として訳されてはいない.

しかるに,その γάρ の意味を考慮しつつ 読み直すなら,我々は このことに気づくことができる:ヨハネが「見た;そして 信じた」のは,イェスの復活は必然的であるということを まだ知らなかったからである;つまり,もし仮に ヨハネが イェスの復活の必然性を 聖書(勿論,旧約の諸テクストのことである)にもとづいて あらかじめ 知っていたならば,彼は「見た,そして 信じた」のではなく,しかして,見なくとも,聖書にもとづいて 信ずることができていたであろう.

「見ずに 信ずる」 それは,同じ 20 章の 少しあとの箇所 (v.29) それは 復活節 2 主日のミサにおいて 朗読される 想起させる;そこにおいて,トマス 彼は「わたしは 見なければ 信じない」(v.25) と主張していた に向かって,復活したイェスは こう言う:

Ὅτι ἑώρακάς με πεπίστευκας; μακάριοι οἱ μὴ ἰδόντες καὶ πιστεύσαντες.

あなたは,わたしを見たがゆえに,信じたのか ? 幸福だ 見ずして信ずる者たちは!

かくして,我々は このことに気づく : v.09 における ヨハネの「見た,そして 信じた」は,v.29 における トマスの「見たがゆえに 信じた」と 同じことである(「彼は,見たがゆえに,信じた」と言うために,単純に等位接続詞で文を繋いで「彼は見た,そして 彼は信じた」と言うのは,ヘブライ語的な構文である).

「見て 信ずる」 勿論,それは それでよい;「信じない」よりは はるかに よい.しかし,それよりもっとよいのは「見ずして信ずる」ことの方である:

見ずして信ずる者たちは 幸福だ!

そのイェスの祝福は,我々に向けられている じかに 空[から]の墓を見たのでも,復活した主の姿を見たのでもなく,しかして「主 イェス キリストは 死者たちのなかから 復活した」という福音を聴いたことによって 信ずる 我々に.


聖書の成就の必然性


さらに,復活の主日の週の水曜日の福音朗読「エマオの弟子たちへの イェスの出現」(Lc 24,13-35) を読むとき,我々は この箇所を見出す:

25 καὶ αὐτὸς εἶπεν πρὸς αὐτούς, Ὦ ἀνόητοι καὶ βραδεῖς τῇ καρδίᾳ τοῦ πιστεύειν ἐπὶ πᾶσιν οἷς ἐλάλησαν οἱ προφῆται·
26 οὐχὶ ταῦτα ἔδει παθεῖν τὸν Χριστὸν καὶ εἰσελθεῖν εἰς τὴν δόξαν αὐτοῦ;
27 καὶ ἀρξάμενος ἀπὸ Μωσέως καὶ ἀπὸ πάντων τῶν προφητῶν διερμήνευσεν αὐτοῖς ἐν πάσαις ταῖς γραφαῖς τὰ περὶ ἑαυτοῦ.

25 そして,彼[イェス]は 彼ら[エマオの弟子たち]に向かって 言った:

おお,あなたたちは 何と 知性を欠いていることか!心が遅すぎることか 預言者たちが語ったことすべてを信ずるためには!
26 メシアが そのように受難し そして 彼の栄光へ入ることは,必然的ではなかったのか?

27 そして,彼は,モーセと預言者たちすべてから始めて,聖書全体において 彼自身について書かれてあることを 彼らに 解釈した.

そこに 我々は Jn 20,09 δεῖ すなわち イェスの復活の必然性を 再び見出す : Tanakh תָּנָ״ךְ : モーセの律法と 大小の預言者たちと 詩篇をはじめとする諸書,すなわち ヘブライ語聖書全体)は こう預言している:メシア イェス (Χριστς Ἰησοῦς) 死者たちのなかから復活することは 必然的である.

実際,同じ ルカ福音書 24章の vv.44-46 において,イェスは 再度 こう言っている:

44 Εἶπεν δὲ αὐτοῖς, Οὗτοι οἱ λόγοι μου οὓς ἐλάλησα πρὸς ὑμᾶς ἔτι ὢν σὺν ὑμῖν, ὅτι δεῖ πληρωθῆναι πάντα τὰ γεγραμμένα ἐν τῷ νόμῳ Μωσέως καὶ τοῖς προφήταις καὶ ψαλμοῖς περὶ ἐμοῦ.
45 τότε διήνοιξεν αὐτῶν τὸν νοῦν τοῦ συνιέναι τὰς γραφάς·
46 καὶ εἶπεν αὐτοῖς ὅτι Οὕτως γέγραπται παθεῖν τὸν Χριστὸν καὶ ἀναστῆναι ἐκ νεκρῶν τῇ τρίτῃ ἡμέρᾳ,

44 そして,彼は 彼らに言った:

これらは,わたしが まだあなたたちとともにいたときに あなたたちに向けて言ったことばである:モーセの律法と預言者たちと詩篇[つまり Tanakh]のなかでわたしについて書かれてあることがすべて成就されることは,必然的である.

45 次いで,彼は 彼らの知性を開いた 聖書を理解させるために.
46 そして,彼は 彼らに 言った:

このように書かれてある:メシアは 苦しみ,そして 三日めに 死者たちのなかから 立ちあがる [1].

その v.44 の「モーセの律法と預言者たちと詩篇 (Tanakh) のなかでわたしについて書かれてあることがすべて成就される」は,ヨハネ福音書におけるイェスの臨終の場面 (Jn 19,28-30) の「聖書が成就される」をも 想起させる.

28 Μετὰ τοῦτο εἰδὼς ὁ Ἰησοῦς ὅτι ἤδη πάντα τετέλεσται, ἵνα τελειωθῇ ἡ γραφή, λέγει, Διψῶ.
29 σκεῦος ἔκειτο ὄξους μεστόν· σπόγγον οὖν μεστόν τοῦ ὄξους ὑσσώπῳ περιθέντες προσήνεγκαν αὐτοῦ τῷ στόματι.
30 ὅτε οὖν ἔλαβεν τὸ ὄξος ὁ Ἰησοῦς εἶπεν, Τετέλεσται, καὶ κλίνας τὴν κεφαλὴν παρέδωκεν τὸ πνεῦμα.

28 そのあと,イェスは,聖書が成就されるために すべてが既に成し遂げられたことを知って,言う:「わたしは 渇く」.
29 酢で満たされた器が そこにあった.そこで,彼らは,酢で満たしたスポンジをヒュソポス[の枝]に付けて,[それを]彼の口のところへ 差し出した.
30 そこで,イェスは 酢を 口にした;[そして]そのとき 彼は 言った:「成し遂げられた」;そして,彼は,頭を垂れて,息吹を引き渡した.

聖書の成就 (πληρωθῆναι, τελειωθῆναι) 必然的である この限りにおいて:聖書をとおして 神は 人間たちに 彼の意志 (τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ) 伝えている;そして,神の意志の実現は 必然的である.

では,その「神の意志」とは 何か? その答えは『カトリック教会のカテキズム』の「主の祈り」の説明 (#2822) 明確に 提示されている:

我らの父の意志は これである:「すべての人間たちが 救われること;そして,真理を識るに至ること」(1 Tm 2,03-04).

その場合,「真理を識ること」(ἐπίγνωσις ἀληθείας) は「神との交わり」と言い換えてよいだろう;なぜなら このゆえに:イェスは「わたしは かつ 真理 かつ いのち である」(Jn 14,06) と言っている;かつ,聖書において「識る」[ יָדַע , γιγνώσκω ] は「親密な関係にある」を意義し得る.そして,その「親密な関係」とは,そこにおて 我々が 神を Abba[おとうさん,パパ]と呼ぶところの 関係 つまり,そこにおいて 我々が神の子であるところの関係 である 神が 我々に πνεῦμα υἱοθεσίας[我々を神の子とする息吹]を授けてくださったことにより.

では,そのような神の意志 あらゆる人間の救済の意志 は,如何にして 実現されたのか 必然的に? 然り,それは 既に実現されている 必然的に.

それは,勿論,終末論的な Ben Adam[神の〈人間である〉息子]かつ 終末論的なメシアとしてのイェスの受難と復活によって 「わたしは 神の息子であり,メシアである」と自覚した イェスが みづから進んで 贖罪のいけにえとして 自身を献げ,そして,死者たちのなかから 永遠のいのちへ立ちあがったことによって である.

ナザレのイェスは如何なる人物であったかについて,わたしは こう推測する:

ガリラヤ地方(当時のガリラヤ地方は,イェルサレムよりも より都市的であり,ヘレニズムやローマの文化に対して より開かれており,教育水準も より高かった)で育ち,地元のシナゴーグの付属学校で教育を受け,さらに,優れたラビのもとで修練を経験し,そして,慣例どおりに 30 歳ころに みづからも ラビとして 公的な活動を開始することになる Yeshua ben Yosef[ヨセフの息子 イェス]は,あるとき,祈りにおいて,息吹の洗礼によって「神の息子」と成り,メシアと成ったことを 自覚する.その「あるとき」は ひとつの劇的な瞬間であったかもしれないし,あるいは,彼は,ラビとなるための厳しい修行の年々をとおして「神の息子」であることに目覚めていったのかもしれない.いずれにせよ,特に 詩篇 2,07 の「おまえは わが息子である;わたしは 今日 おまえを生んだ」は 彼に 決定的な inspiration[息吹の吹入]を与えただろう.

しかも,彼にとって「神の息子」である ということは,単に〈栄光に満ちた〉メシアであることを意義するだけではなく,しかして,第 2 イザヤ書 (Is 52,13 53,12) で提示されている「主のしもべ」— 彼は,神の意志にしたがって〈人間すべての代わりに 彼らの罪を引き受け,自身を 子羊のように 贖いのいけにえとして献げることによって〉人間すべてに救済をもたらし,そして,彼自身 高められ,永遠のいのちを生きることになる であることをも 意義する.

かくして,彼は,救済論 人間は如何に救済され得るか に,終末論との連関において,このコペルニクス的な転回を もたらす:すなわち,救済は〈個々人が ことこまかな律法の規定に忠実に従って 生活し,律法が定めるとおりに 家畜や穀物の いけにえを 神に 定期的に捧げ続けることによって〉個別的に得られるのではない;そうではなく,神が〈神の 人間に対する 愛のゆえに〉神自身の意志によって 人間すべてに 終末論的な救済を 与える しかも,人間にとっては 無償で なぜなら 神が みづから その代価を 人間のために 支払ってくれるから:すなわち,人間を贖うために,神が 神自身の〈人間である〉息子[בֶן־אָדָם , Ben Adam, 人の子]を 贖いのいけにえとして 神自身に 捧げるしかも,繰り返してではなく,一回限りなぜなら このゆえに:それで十分である全人類の終末論的な救済の完成ために.そして,彼[イェス]自身は〈死から 永遠のいのちへ 復活することを〉報いとして 父から与えられる.

そのような救済論は,民衆からは熱烈に支持されるであろうが,イェルサレムでは神殿祭司(サドカイ人)たちからも律法学者(ファリサイ人)たちからも激しい反発を惹起するだろう,ということを,イェスは 当然 始めから 計算に入れている.しかも,自身をいけにえとして捧げるために十字架上で処刑されるためには,それだけでは足りない;ローマ帝国に対する反逆者と見なされねばならない;そこで,イェスは,彼の周りに形成される弟子たちの集団を わざと「神の王国」ないし「天の王国」と呼ぶ それが あたかも ユダヤ民族国家の独立を目ざす政治的な動きであるかのように 見せるために;そして,実際,ローマ帝国に対する反乱をもくろむ勢力は 彼を「ユダヤ人たちの王」として担ぎ上げようとする.かくして,神の意志にしたがうイェスの意図どおりに,彼の救済論は 実現された 彼が 十字架上で 全人類の贖いのために 神に献げられる いけにえとして 屠られたことによって 必然的に.


彼は何を見たのか?


最後に,「そして,彼は 見た;そして,彼は 信じた」に関する もうひとつの問い「彼は何を見たのか?」について 手短に考えてみよう.

ペトロとヨハネが イェスの墓のところで 見たものは,復活したイェスの姿ではなく,しかして,そこに存在するはずの彼の遺体の不在である:空[から]の洞穴という 空虚の穴,ひとつの欠如 ラカンの用語で言うなら「存在欠如」(le manque à être) — 穴である.我々は それを「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と呼ぶ.その穴との遭遇が 彼らを イェスの復活の信仰へ 導いた.

トマスの場合も同様である.彼が見たのは,イェスの身体に打ち込まれた釘の跡の穴であり,彼の身体に突き刺された槍の傷の穴である.それらも,否定存在論的孔穴の形象である.そして,それらを見て,トマスは 叫ぶ : “Ὁ κύριός μου καὶ ὁ θεός μου”[あなたは わが主 かつ わが神!]

否定存在論的孔穴との遭遇は,強い不安を惹起する 無の不安,死の不安,罪の不安.上に引用した福音の箇所においては そのような不安は物語られてはいない.だが,我々の大多数は,我々自身の経験から 強い不安が経験される 最も日常的な状況は,たとえば,睡眠中に見る夢である 否定存在論的孔穴をまえにしての不安を 識っている.

では,如何にして その不安から 復活の喜びへ 至ることができるのか? ここでは こう言うにとどめておこう:それは 信仰の神秘である.そして,それにならって,こうも言っておこう:それは 無意識の神秘であり,精神分析の神秘である.


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[1] Lc 24,46 の「メシアは 苦しみ,そして 三日めに 死者たちのなかから 立ちあがる」に関して,The Ignatius Catholic Study Bible (2010) 注において こう述べている:

それは,旧約のなかで予告されている神秘である.イェスに対する侮辱と拒絶は 詩篇 31, 69, 118 および イザヤ 50,06 想起させる.

彼の苦しみと十字架刑は,詩篇 22 および イザヤ 53 において 描かれている.

「三日め」については,イェス自身の説教のなかで[幾度も]強調されている.旧約の背景は さまざまである :

(1) イサク:彼は,神が 三日めに 彼をアブラハムに無事に返すために 介入するまで,三日間 死の宣告のもとにあった (Gn 22:04). それは,死に至るまで父に従順であったあとに新たないのちへ起きあがった[復活した]イェスの歴史的予告である.

(2) 預言者ヨナの経験:彼は,クジラの胃のなかに 三日間 いたあと,そこから出てきたことにおいて,三日ののちに墓から現れ出てきたキリストを 予示している (Jon 1,17).

(3) 預言者ホセアは,イスラエルの〈バビロン捕囚からの〉再建を,三日めの復活として 描いている (Hos 6,02). メシアは 十全な意味において イスラエルを表す その召命と運命とを体現することにおいて がゆえに,キリスト自身の復活は イスラエルの〈息吹を失った死の状態からの〉復活を 開始させる.

(4) より一般的に,「三日」というモチーフは,神による解放への前奏と関連しており (Ex 10,21-23), また,主との出会いに先立つ準備の期間と関連している (Ex 19,10-11).

寓意的には,キリストは,墓のなかに 二夜 横たわっていた 二重の〈罪による〉死から 人間を救うために なぜなら このゆえに:魂は 罪のゆえに 精神的に 死に,そして,身体は 罪に対する罰として 物理的に 死ぬ.三日めに,キリストは,死に打ち勝って,今や,我々の魂を 恵みにおける新たないのちへ立ちあがらせる;そして,のちに 我々の身体を 栄光において 立ちあがらせるだろう.

ただし,The Jewish Annotated New Testament (2017) は「Tanakh のなかには メシアの受難と復活が明記されている箇所は ない」と断言している.つまり,メシアの受難と復活は 解釈である.実際,Lc 24,27 διερμήνευσεν[彼は 解釈した]と言われている.この ἑρμηνευτική は,紀元 1 世紀以降 rabbinic Judaism(神殿祭儀が不可能となったあと もっぱら聖書のテクストとその解釈に準拠する ユダヤ教の信仰形態)において さらに発展してゆく Midrash と呼ばれる 聖書解釈学である.

2024年3月11日

死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り

死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り
Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay 

ユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り


イタリアでテレビ番組を通じて若者への福音宣教をおこない,また,Padova の刑務所での司牧もおこなっている Marco Pozza 神父(Padova 司教区 司祭)による Papa Francesco インタヴュー本 Quando pregate, dite Padre nostro[あなたたちは,祈るとき,こう言いなさい : Pater noster(2017) のなかで,Papa Francesco は,Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay のなかの ある柱頭に施されている「死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリスト」の浮き彫りに 言及している.その部分をフランス語訳から邦訳する 残念ながら イタリア語の原書は 手元にないので.

インタヴュアーの Marco Pozza 神父が〈Papa Francesco 説教のなかで「我々が 自分の行いを恥ずかしいと感じたとき,その羞恥心は ひとつの恵みである」と述べていたことに〉言及したことを受けて,Papa Francesco こう言っている:

受難の物語は,羞恥心に関連するエピソードを 三つ 含んでいる.三人の人物が 羞恥を感じている.

ひとりめは ペトロである.ペトロは,雄鶏が鳴くのを聞く;そのとき,彼は 自身の内に 何ごとかを 感ずる;そして,そのとき,[囚われている]キリストが 彼の方へ 振り向き,彼を見つめる.彼の羞恥心は とても大きいので,彼は苦い涙を流す (cf. Lc 22,54-62).

ふたりめは 善き盗賊である;彼は,彼の〈不運の〉仲間[ともに十字架にかけられた もうひとりの盗賊]に,言う:「我々にとっては[この処刑は]正義だ;我々は,我々の行為の代償を支払っている;だが,彼[イェス]は 悪いことを何もしていない」.彼は,自身を罪ぶかいと感じている;彼は羞恥を感ずる;そして,かくして 聖アウグスティヌスは 述べている その羞恥心のおかげで,彼は天国を得たのである (cf. Lc 23,39-43).

最後の羞恥心 ユダの羞恥心 は,わたしを最も感動させる羞恥心である.ユダは,理解しがたい人物である;彼の人格の解釈は 非常に 数多い.だが,つまるところ,彼は,自分が何をしたかを理解したとき,「義人たち」 大祭司たち のところへ行って,こう言う:「わたしは,罪なき血を引き渡したことにおいて,罪を犯した」.だが,彼らは 言う:「それが 我々に対して 何だ? おまえは[自分で]わかるだろう」(cf. Mt 27,03-10). そして,彼は その場から 去る 彼の過ちの重みに 打ち砕かれて.もし 彼が おとめマリアと出会っていたならば,おそらく 事態は ほかの展開を取っていただろう;だが,哀れな男は その場から 去り,如何なる出口をも見出すことができず,首を吊る.

しかるに,わたしに〈ユダの話はそこで終わらない と〉考えさせることが ある.[わたしが そのようなことを 言うと]おそらく「この教皇は異端だ」と考える者が いるだろう.だが,そうではない! 

フランスのブルゴーニュ地方にある Basilique de Vézelay ある柱頭を 見にいってみなさい.中世の人々は,彫刻や絵の助けを借りて カテキズムを教えていた.その柱頭の一方の側には,首を吊ったユダを 見ることができる;だが,他方の側には,善き羊飼い[キリスト] 彼は,ユダを 肩に担いで,連れてゆく 見ることができる.善き羊飼いの唇は,微笑み 皮肉の微笑みではなく,共謀者の微笑み を浮かべている.

わたしのデスクの上のほうに,その柱頭の写真 二分割の写真 が掲げられている.それは,このことを考えさせる:羞恥を感ずるしかたは たくさん ある;それらのうちの ひとつは 絶望である;その場合,我々は 絶望した者を助けようと試みねばならない その者が まことの〈羞恥心の〉道[回心の恵みを与えてくれる〈羞恥心の〉道]を見いだせるように その者が ユダとともに[自殺に]終わる道を取らないように.

以上の〈受難の物語に登場する〉三人は,わたしにとって 大いに助けとなる.羞恥心は ひとつの恵みである.我々のところ アルゼンチン では,ふるまい方を知らず,人々に迷惑をかける者は,「恥知らず」である.

我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari 神父の 1958年の聖木曜日(4月3日)のためのミサ説教

Papa Francesco の 書斎に 飾られている 絵:死んだユダを救済するイェス(制作者 不明)

我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari 神父の 1958年の聖木曜日のためのミサ説教


20240228日に Vatican News website 公表された Papa Francesco COPAJUComité Panamericano de Jueces y Juezas por los Derechos Sociales y la Doctrina Franciscana : 社会権とフランチェスコ会教義のための 裁判官たちの 汎アメリカ委員会)のメンバー宛ての ヴィデオメッセージそのテクストを Papa Francesco 彼の執務室で 読みあげた 動画のなかで,我々は,彼のデスクの背後の壁に「自殺したユダの遺体へかがみこむキリスト」を描いた絵を見ることができる.その絵は,20210401日(聖木曜日)付の L’Osservatore Romano 紙の 記事(聖母の騎士修道女会の シスター 立子による 邦訳)によると,Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay ある柱頭のレリーフ そこには,首を吊ったユダを 善き羊飼いキリストが 救済する 姿が描かれており,それに Papa Francesco 2017年の あるインタヴューのなかで 言及している および 教皇のそのレリーフに関する省察 感銘を受けた あるフランス人信徒が 描いて,教皇に寄贈したものである.2021年の聖木曜日 L’Osservatore Romano 紙には,また,1958年の聖木曜日(4月03日)に Primo Mazzolari 神父が 成した 有名なミサ説教「我らの兄弟 ユダ」の テクストが 再録されている.そこで,以下に,そのミサ説教のテクスト および Papa Francesco インタヴューの 当該の一節の 邦訳(別記事)を 提示する.なお,Primo Mazzolari 神父の説教の邦訳は,L’Osservatore Romano 紙の web 版に 掲載された イタリア語のテクストにもとづくが,Papa Francesco インタヴューの邦訳は,イタリア語原文の仏訳にもとづく(訳者の手元には 仏訳しかないので).


我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari [1] 神父の 1958年の聖木曜日(43日)のためのミサ説教

わが兄弟たちよ,[今 朗読された福音書の一節は]まことに 死が近づいた 最後の晩餐の 場面である.外は暗く,雨が降っている.我々の教会 それは 最後の晩餐の場となる のなかでは,雨は降っていない;闇もない;だが,心の孤独がある;その重みを おそらく 主は 負ってくださるだろう.

わたしが〈主の最後の晩餐の記念として〉祝うミサの 祈りのなかで 幾度も繰り返される名が ある 恐怖を覚えさせる名 裏切り者ユダの名.

[聖木曜日のミサのなかで行われる洗足式で]あなたたちの子どもたちのグループが 使徒を演ずる 彼らは 12 いる;彼らは 罪がなく,皆 善良であり,まだ「裏切る」ということを知らない.そして,神が〈彼らだけでなく,我々の子どもたちすべてが主を裏切ることのないように〉してくださるように.主を裏切る者は,自分自身の魂を裏切り,兄弟を裏切り,自分自身の良心と義務を裏切り,そして 不幸になる.

わたしは[ユダに焦点を当てるために]しばし 主のことを忘れてみよう;あるいは,むしろ,主は〈あの裏切り それは 主の心に 果てしない苦痛を与えたはずである の苦痛の反映のなかに〉現在している.

哀れなユダ ! 彼の魂のなかで何が起きたのかを,わたしは 知らない.彼は,我々が主の受難[の物語]のなかに見出す人物たちのなかで,最も神秘的な者である.わたしは,彼のことをあなたたちに説明しようとさえ思わない.わたしは こうすることに甘んずる:わたしは,あなたたちに〈我々の哀れな兄弟ユダのために〉若干の憐れみを求めたい.

我々と彼とが兄弟であることを引き受けることに 恥を感じないように.わたしは そのことを恥ずかしいとは 思わない;なぜなら このゆえに:わたしは〈わたしが 幾度 主を裏切ったかを〉知っている.そして,わたしは こう思う:あなたたちのうち誰も 彼のことを恥じるべきではない.そして,彼を兄弟と呼ぶことによって,我々は 主のことばづかいのなかにいる.

主は,ゲッセマネで裏切りの接吻を受けた [2] とき,これらのことばによって ユダに答えた [3]それらのことばを 我々は 忘れてはならない:

友よ [4],あなたは 接吻 [5] により 人の子を裏切るのだ!

「友よ」! その語 それは あなたたちに 主の愛の無限の優しさを 言っている あなたたちに〈なぜ わたしが ここで 彼を友と呼ぶのかを〉わからせもする.

主は,最後の晩餐の場で「わたしは あなたたちを しもべとは呼ばず,友と呼ぶ」[ οὐκέτι λέγω ὑμᾶς δούλους, (…) ὑμᾶς δὲ εἴρηκα φίλους ] (Jn 15,15) と言った.使徒たちは,主の友となった.彼らは,善良であろうとなかろうと,寛容であろうとなかろうと,忠実であろうとなかろうと,いつも 主の友のままである.

我々は,キリストの友愛を裏切るかもしれない;だが,キリストは 決して 我々を 彼の友である我々を 裏切らない.我々が友と呼ばれるに値しないときでも,我々が彼に対して背くときでも,我々が彼を否むときでも,彼の目と彼の心のまえで 我々は いつも 主の友である.

ユダは 主の友である 彼が接吻を以て主に対する裏切りを遂行するときでも.

わたしは あなたたちに 問うた:なぜ 主の使徒が 最後に 裏切り者となったのか? わが親愛なる兄弟たちよ,あなたたちは 悪の神秘を識っているか? あなたたちは〈如何にして あなたたちが悪人になったかを〉言うことができるか?

このことを想起したまえ:あなたたちのうちに〈何らかの機会に[自省したときに]自身のなかに悪を見出さなかった者は〉誰もいない.我々は[我々のうちで]悪が成長するのを 見た;我々は 知りもしない なぜ 我々は悪に耽るのか,なぜ 我々は 冒瀆者に 否認者に なったのか を;我々は 知りもしない なぜ 我々は キリストと教会に対して 背を向けたのか を.

ほら,悪は,あるとき,出現した.それは どこから出現したのか? 誰が 我々に 悪を教えたのか? 誰が 我々を 腐敗させたのか? 誰が 我々から 無邪気さを 取り上げたのか? 誰が 我々から 信仰を 取り上げたのか? 誰が 我々から これらの能力を 取り上げたのか 善を信じ,善を愛し,義務を引き受け,ひとつの使命としての人生に立ち向かう[能力を].

我らの兄弟ユダを 見なさい!あの共通の惨めさとあの驚きにおける兄弟を!

だが,誰かが ユダが裏切り者となることを 助けたはずである.福音書 (Jn 13,27) こう言っている そのことばは,ユダの悪の神秘を説明はしないが,それを 我々の面前に 印象的なしかたで 置く:

そのとき,彼のなかへ サタンが 入った.

サタンが 彼に 取り憑いた.誰かが サタンを 我々のなかへ 導入したはずである.

どれほどの人々が 悪魔の仕事をしていることか 神が作りあげたものを破壊すること,良心を荒廃させること,疑念を広めること,不信感を忍びこませること,神への信頼を取り去ること,多くの人間 神の被造物 の心から 神を消去すること.それが 悪のしわざである;サタンのしわざである.サタンは ユダのなかで 作用した;そして,我々のなかでも 作用し得る もし我々が注意ぶかくなければ.

それがゆえに,主は 彼の使徒たちに オリーヴ園で こう言った 彼が彼らを近くに呼びよせたときに (Mc 14:38) —

目覚めていなさい,そして,祈りなさい 試みに陥らないために.

そして,試みは 金[かね]とともに 始まった.金を数える手.

彼[ユダ]は 言った:「あなたたちは わたしに何を与えることを 欲するか わたしが彼をあなたたちに引き渡すために?」そこで,彼ら[大祭司たち]は,彼に 銀貨 30 枚を 置いた[与えると約束した](Mt 26,15). 

だが,彼らが彼に[銀貨30枚を]数えた[数えて 与えた]のは,キリストが既に逮捕されて,裁きの場へ連れて行かれたあとである.

見なさい,何たる取引か ! 友,師,彼[ユダ]を選び,使徒にした方,我々を神の息子にしてくださった方,我々に〈神の息子の尊厳と自由と偉大さを〉与えてくださった方.それは 何たる取引か ! 銀貨 30 枚 [6] ! わずかな利得 !

おお,わが親愛なる兄弟たちよ,良心は[それを売っても]わずかな価値しか有していない ! 銀貨 30 ! そして,我々は,ときとして〈銀貨 30 枚よりも少ない値段で〉我々自身を 売る.

それが 我々の利得である.以上によって,あなたたちは ユダを 最悪の商売人に 分類したい と感ずるだろう.このような誰かが いる その者は〈キリストを売り,キリストを否み,敵側に付くことによって 商売をした〉と思っている;彼は[それによって]得たと思っている 職を,若干の仕事を,何らかの評価を,何らかの敬意を 幾人かの友だちのなかで;[しかるに]それらの者たち[彼が彼の友と思っている者たち]は〈彼らの仲間である誰かの魂のなかにある 良心のなかにある 最良のものを 持ち去り得ることを〉悦している.

さあ,あなたたちには 利得が 見えるか? 銀貨 30 ! それらの銀貨 30 枚は 何に成るか?

あるときに 明日[聖金曜日]キリストが死刑判決を受けようとするときに あなたたちは ひとりの男 ユダ 見るだろう.おそらく,彼は〈彼の裏切りが それほどの帰結に至るとは〉想像していなかっただろう.

彼[ユダ]が[キリストに対する]十字架刑[の判決]を聞いたとき,彼[ユダ]が〈彼[キリスト]が ピラトの中庭で 死に至るほどに鞭打たれているのを見たとき,裏切り者は ひとつの所作を 大いなる所作を 思いつく;彼は,あそこへ 行く;そこには,民の長たち[大祭司たち]彼らは 彼[キリスト]を買った;彼らによって 彼は買われた が,まだ 集まっていた.彼[ユダ]は,財布を手に持ち,銀貨 30 枚を 取り,それらを 彼らに 投げつける:

あなたたちは それらを 取りなさい;それらは,義人の血の代価である.

信仰による啓示 彼は〈彼の悪行の重大性が如何ほどのものであるのかに〉気づいた.もはや それらの銀貨に 価値はない 彼は それらの銀貨をとても当てにしていたのだが.金[かね].銀貨 30 枚.

良心は どれほど重要であるのか? クリスチャンであることは どれほど重要であるのか? あなたたちにとって 神は どれほど重要であるのか? 神は 見えない;神は 我々に 食べるものを 与えてくれるわけではない;神は 我々に 気晴らしをさせてくれるわけではない;神は,我々の生の理由を与えてくれるわけでもない.

銀貨 30 そして,我々は〈それらを手のなかに持っている力を〉有していない.そこで,それらは[我々の手から]離れる.なぜなら このゆえに:良心が穏やかでないところでは,金[かね]さえも 苦悩になる.

ひとつの所作が 人間の偉大さを示す所作が 起こる:彼[ユダ]は それら[銀貨 30 枚]を そこに 投げ棄てる.あなたたちは〈そこにいた人々[大祭司たち]は何ごとかを理解すると〉思うか? 彼らは,それらを拾い集め,そして 言う (cf. Mt 27,06-07) :

それらには血がついているから,我々は それらを 別にしておこう.我々は[その金で]若干の土地を買おう;そして,それを墓地にしよう 〈過越の祭 および そのほかの《我らの民の》大きな祭の間に 死ぬ〉異邦人たちのための 墓地に [7].

そして,場面は切りかわる:そこは,明日[聖金曜日]の晩 十字架が見出されるとき ;そのとき,あなたたちは 見る ふたつの死刑台があるのを:一方には キリストの十字架がある;他方には 裏切り者が首を吊る樹がある.

哀れなユダ.我らの哀れな兄弟.さまざまな罪のうちで最大のものは,キリストを売る罪ではなく,しかして,絶望する罪である.ペトロでさえ,主を否んだ;だが,次いで,彼は 主を見つめた;そして,泣き始めた;そして,主は彼を彼の職務に改めて就けた:[キリストの]代理人 (il vicario di Cristo : il papa). 使徒たちは すべて 主を見棄てたが,戻ってきた.そこで,キリストは 彼らを赦し,以前と同じ信頼を以て 彼らを改めて使徒にした.あなたたちは こう思うか ? : ユダのためにも[使徒]職は あったのではなかろうか ? — もし 彼が そう欲したならば;もし 彼が カルヴァリオの丘のふもとへおもむいていたならば;もし 彼が 彼[キリスト]を せめて〈十字架の道ゆきの通りの一角で あるいは 曲がり角で〉見ていたならば [もしそうであったならば]彼のためにも 救いは到来していただろう.哀れなユダ.

十字架と〈首を吊った者の〉樹 ;[イェスを十字架に打ちつけた]釘 と[ユダが首を吊った]縄 それら ふたつの終りを 対置してみたまえ.あなたたちは わたしに こう言うかもしれない:「一方は死んだ;そして,他方も死んだ」.だが,わたしは あなたたちに 問いたい:あなたたちが選ぶ死は どちらか ? キリストのように 十字架のうえで死ぬ キリストの希望のうちに ことか,あるいは,首を吊って死ぬ 絶望して,面前には何も無く 者の死か?

もし 今宵 それは[最後の晩餐の]親密さの晩であるはずであった わたしが あなたたちに かくも苦悩に満ちた省察を もたらしたとすれば,わたしを赦したまえ.だが,わたしは ユダのためにも 善を欲する[ユダをも愛している];彼は わが兄弟ユダである.わたしは,今宵,彼のためにも 祈りたい なぜなら このゆえに:わたしは裁かない;わたしは断罪しない.[もしそのようなことをすれば]わたしは わたし自身を裁かねばならないだろう;わたし自身を断罪せねばならないだろう.

わたしは,こう思わずにはいられない:ユダに対しても,神の憐れみ,あの愛の抱擁,あの「友よ」という語 それを 主は〈彼[ユダ]が 彼[主]を裏切るために 彼に接吻している間に〉彼に 言った —…その[「友よ」という]語が 彼[ユダ]の 哀れな心のなかに 入りこまなかった 考えることは,わたしにはできない.

そして,おそらく,最期の瞬間に,その[「友よ」という]語を思い出しつつ,そして,主が彼の接吻を受けいれたことを思い出しつつ,ユダも こう感じただろう:主は なおも 彼のために善を欲しており[彼を愛しており],そして,ほかのところにいる主の弟子たちのなかに彼を迎え入れてくれる.おそらく,彼は[イェスとともに十字架に架けられた]ふたりの盗賊とともに[天国へ]入った 最初の使徒であろう.その[ユダとふたりの盗賊から成る]行列は,たしかに,そう考える者もいるだろうように,神の息子を讃えるものには見えないかもしれないが,しかし,それは 彼の憐れみ偉大さである.

そして,今 ミサを続けるまえに,わたしが,我々のうちで 主の使徒たちを演じている 我らの子どもたち[の足]を洗いつつ,そして,彼らの無邪気な足に接吻しつつ,最後の晩餐におけるキリストの所作を繰りかえす 今,わたしが つかのま ユダのことを思うことを 許したまえ あのユダを わたしは わたし自身のうちに 有している;そして,おそらく あなたたちも あなたたちのうちに あのユダを有しているだろう.そして,わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ 死の予感に苦悩するイェスに,我々を あるがままに 受けいれてくださる イェスに ;わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ:復活祭の恵みとして,わたしを友と呼びたまえ.復活祭は,あの[「友よ」という]ことばである そのことばは,わたしとしての哀れなユダに向けて言われたものであり,あなたたちとしての哀れなユダに向けて言われたものである.

これこそが 喜びである:キリストは 我々を愛している;キリストは 我々を赦す;キリストは〈我々が絶望することを〉欲しない.たとえ 我々が 常に 彼に対して背を向けるときも,たとえ 我々が 彼を冒瀆するときも,たとえ 我々が 我らの生の最期のときに 司祭を拒むときでも,このことを思い起こそう:彼にとっては,我々は いつも 友である. 

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訳注:

[1] Primo Mazzolari (1890-1959) は,イタリアのカトリック司祭,文筆家,反ファシズム活動家.1912年に Lombardia 地方の Brescia 教区で 司祭に叙階された.第一次世界大戦には 志願兵 および 従軍司祭として 参加した.1932年,Bozzolo 小教区の司祭に任命され,死のときまで そこで司牧した.第二次世界大戦中は,ユダヤ人やレジスタンス活動家を匿った.彼自身 逮捕されたこともあった.戦後,Associazione Nazionale Partigiani d'Italia[イタリア パルティザン 協会]は,彼の功績のゆえに,彼をパルティザンと認めた.彼の反差別主義と平和主義の考えは,当初は 教会内で批判されていたが,彼の晩年には 肯定的に評価されるようになり,1957年に ミラノ大司教(のちの教皇パウロ 世)によって 説教するよう招かれ,また,1959年には 教皇ヨハネ 23 世により 個人接見に 迎えられた.彼は 第 ヴァチカン公会議の精神を先取りしていた と評価されている.

[2] 三つの共観福音書においては ユダは イェスに 接吻するが,ヨハネ福音書においては ユダはイェスに接吻しない.

[3] マルコ福音書 (14,45) においては,ユダは,イェスに「ラビ」と呼びかけ,そして,彼に接吻するが,イェスは何も答えない.マタイ福音書 (26,49-50a) においては:

49 καὶ εὐθέως προσελθὼν τῷ Ἰησοῦ εἶπεν, Χαῖρε, ῥαββί, καὶ κατεφίλησεν αὐτόν.
50a ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῷ, Ἑταῖρε, ἐφ᾽ ὃ πάρει.

49 そして,彼[ユダ]は まっすぐに イェスのところへ 来て,言った:「こんばんは,ラビ!」そして,彼に接吻した.
50a すると,イェスは 彼に 言った:「友よ,それがためにあなたがここにいるところのこと[それは,わたしを引き渡す[裏切る]ことだ]」.

そして,ルカ福音書 (22,47b-48) においては:

47b καὶ ἤγγισεν τῷ Ἰησοῦ φιλῆσαι αὐτόν.
48 Ἰησοῦς δὲ εἶπεν αὐτῷ, Ἰούδα, φιλήματι τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου παραδίδως;

47b そして,彼[ユダ]は イェスに近づいた 彼に接吻するために.
48 すると,イェスは 彼に 言った:「ユダよ,あなたは 接吻を以て 人の子を 引き渡す[裏切る]のか?」

つまり,Don Primo は,Lc 48 の「ユダよ」のところに Mt 50a の「友よ」を代置している.

なお,無理やり「こんばんは」と訳した ユダのイェスへの挨拶のことば “Χαῖρε” は,直訳すれば「喜びたまえ」であり,受胎告知の際に大天使ガブリエルがマリアに呼びかける際に用いた挨拶の語と同じものである;実際,Vulgata では Mt 26,49 の挨拶は “Ave, Rabbi !” と訳されている.

[4]「友よ」という呼びかけの原語は “Ἑταῖρε” である.名詞 ἑταῖρος は「仲間,同志」であり,呼格で用いられるときは,親しみのこもった「友よ」となる.

[5]「接吻する」と訳される動詞は φιλέω または καταφιλέω である;動詞 φιλέω 形容詞および名詞 φίλος[友として(友のように)親しい,友]の派生語であり,その原義は「友愛という意味において愛する」であるが,「友愛の徴として接吻する」を派生的な意味として 有している.動詞 καταφιλέω より強められた意味において「接吻する」である.また,動詞 φιλέω から派生した名詞 φίλημα が「接吻」の意味で Lc 22,48 において 用いられている.そのように,ギリシャ語では φίλημα[接吻]という語に φιλέω[愛する]を見てとることができる.したがって,Lc 22,48 “φιλήματι παραδίδως;”[あなたは 接吻を以て(わたしを)引き渡す 裏切る のか?]というイェスの言葉は,「あなたは,わたしを,愛の徴を以て 愛しているのに あるいは 愛しているがゆえに 裏切るのか?」とも読むことができるだろう.

[6]「葡萄園の労働者」の譬え (Mt 20,01-16) におけるように,その銀貨が ローマ帝国のデナリオン銀貨であれば,銀貨 30 枚は 労働者の 30日分の賃金である;だが,おそらく 大祭司とユダとの間の取引は ユダヤ人たちのシェケル銀貨で成されたであろう;そうであれば,銀貨 30 枚は 奴隷ひとりの賠償金の額である (cf. Ex 21,32) :

もし 雄牛が ひとりの奴隷[男]または ひとりの女奴隷を 角[つの]で突いた[突いて 死なせてしまった]ならば,彼[雄牛の所有者]は 奴隷の主人に 銀貨 30 シェケルを 与えるべし;そして,その雄牛は 石打に処されるべし.

つまり,ユダは〈彼の友であり主であるイェスを売ったことによって〉奴隷ひとり分の代価 それは 大した金額ではない を受け取ったのである.

[7] Don Primo の自由な引用.より正確には (Mt 27,06-10) :

6 そこで,大祭司たちは,銀貨を取って,言った:

それらをコルバン[神殿の献金,それらを保管しておくための金庫]へ入れるのは 適法ではない なぜなら,それらは 血の代価であるから.

7 そこで,彼らは,相談して,その銀貨で 陶工の土地を 買った 異邦人たちの埋葬のために.
8 それがゆえに,その土地は「血の土地」と呼ばれた 今日に至るまで.
9 かくして,預言者イェレミアによって言われたことが 成就した:

そして,彼らは 銀貨 30 枚を 取った それらは,イスラエルの息子たちによって値ぶみされた者 彼らが値ぶみした者 代価である
10 そして,彼らは,それらを 陶工の土地[を買う]ために 与えた[支払った]主がわたしに命じたとおりに.

翻訳および訳注:ルカ 小笠原 晋也