2018年5月10日

『LGBTQ と カトリック教義』のなかの formules de sexuation にかかわる一節



LGBTQ と カトリック教義』のなかの formules de sexuation にかかわる一節


さて,神に性別は無い.CCE (Catechismus Catholicae Ecclesiae) nº 370 において述べられているように,神は,たとえ Jesus によって「父なる神」と呼ばれてはいても,純粋霊気であって,性別を持たない.

言い換えると,神は純粋 存在 である,すなわち,そのものとしては空(から)の解脱実存的在処である.

にもかかわらず,神は「父なる神」と呼ばれる.それは,社会学者やフェミニストが考えるように,単に,歴史的な家父長制の名残にすぎないのだろうか?そうではない.

Lacan は,不可能な父の phallus について思考することから出発する.

「不可能」とは,この場合,「書かれないことをやめない」ことである.

したがって,「不可能である」ことは,単純に「欠如している」こととは異なる.後者は「存在事象の次元において不在である,見出されない」ことであるのに対して,前者は,「存在 の解脱実存的な在処 (ek-sistente Ortschaft des Seins) において,書かれないことをやめない」ことである.

そのような不可能な父の phallus の不可能性のゆえに,性関係は不可能である.Lacan は「性関係は無い」と公式化しているのは,そのことである.

男女の存在論的な性別は,不可能な父の phallus との関係によって規定される.

Lacan formules de sexuation[性別の公式]と呼ぶ形式論理学的な式に若干手を加えたものを,提示しよう:

: ("x) FI(x) Ù ($x) FR(x)

: Ø("x) FI(x) Ù Ø($x) FR(x)

ここで,Ø は,形式論理学の通常の表記と同様に,否定の記号であり," は「すべての」である.

$ は,通例,「... が現存する」(il existe) を表すが,ここでは「... が解脱実存する」(il ex-siste) を表すものと解釈される.

FR は,le phallus réel[実在的なファロス],すなわち,不可能な 書かれないことをやめない 父のファロスである.

FI は,le phallus imaginaire[影在的なファロス]である.それは,Freud が性本能の発達段階に関する考察のなかで小児の phallische Phase[ファロス期]と呼ぶ段階においてかかわる男の自我理想 [ Ich-Ideal ] としての phallus である.その自我理想との同一化が,存在論的な「男である」を規定する.

以上の論理式を用いて Lacan が説明しようとしたのは,次のような事態である:

まず,「男である」の側を特徴づけるのは,($x) FR(x) 論理式 FR(x) を満たす x ex-sistence[解脱実存]の仮定である.すなわち,父なる神の解脱実存の仮定である.それによって,初めて,男の自我理想としての phallus FI が可能となる.

言い換えると,むしろ,phallus FI の可能性の条件として,ex-sistent[解脱実存的]な phallus FR の仮定は要請される.

さて,ひとつの存在事象である或るひとりの人間が存在論的に言って「男である」とは,その者が論理式 FI(x) を満たす,ということである.

論理式 ("x) FI(x)[すべての x について FI(x) である]によって,我々は, FI(x) を満たす存在者すべてによって構成される集合を,措定することができる.それが,男の集合 M である:

M = { x | FI(x) }

男の集合 M は,ひとつの集合として,現存する.

以上のような「例外的な x が解脱実存する」の仮定(父なる神の解脱実存の仮定)と「すべての x について」の措定(男の集合の措定)とが,男の側の構造を規定する.

それに対して,「女である」の側においては,式 Ø($x) FR(x) が示唆しているように,父であるような者の解脱実存は仮定されず,そのような者は現存もしていない.

また,女の側においては,ひとつの存在事象である或るひとりの人間が「女である」ことを存在論的に規定する論理式は,無い.

つまり,「x は女である」と肯定的に言うことはできず,「x は男ではない,男の集合 M に属してはいない」と否定的に言うことしかできない.

Ø("x) FI(x) が示唆しているのは,男の集合 M の外部という不確定な領域である.

ということは,女の側には,単に「女である」だけではなく,「男でも女でもない」や「男なのか女なのか,わからない,定まっていない,流動的である」などの queer であることのあらゆる存在論的多様性 「男である」の規範性に当てはまらないことのあらゆる存在論的多様性 が位置づけられる,ということである.

以上が,存在論的性別 (sexuation ontologique) に関するおおまかな説明である.

存在論的性別は,生物学的性別とはまったく別の次元のことである.生物学的な女性が存在論的には男性であることもあり得,生物学的な男性が存在論的には男性ではないこともあり得る.

transgender の人々の自身の実存に関する証言は,性別に関する固定観念や先入観から我々を解放してくれ,性別づけられて在ることに関してより適切に思考することを可能にしてくれる.

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