2018年1月17日

「わたしたちはハラスメントの自由を擁護する ‒ 性の自由に不可欠だから」翻訳


20180109日付 Le Monde 紙の「論壇」欄に発表された公開書簡

わたしたちはハラスメントの自由を擁護する性の自由に不可欠だから

執筆者:
Sarah Chiche(作家,臨床心理士,精神分析家)
Catherine Millet(美術評論家,作家)
Catherine Robbe-Grillet(俳優,作家)
Peggy Sastre(文筆家,ジャーナリスト,翻訳家)
Abnousse Shalmani(作家,ジャーナリスト)

署名者:上記5名,ならびに,ほか105名,計110名 


強姦は犯罪だ.しかし,ナンパは,しつこくても,不器用でも,犯罪ではなく,男が熱心に女性の気を引こうとすることも,男尊女卑的暴力ではない.

Weinstein 事件に続いて,特に男が権力を濫用する専門職の領域において女性に対して為されてきた性暴力を正当に意識化する運動が起きた.それは必然的なことだった.しかし,その言論の解放は,今や,その逆のものに転化しつつある:わたしたちは,しかるべく語り,まずいことは黙っているよう言い渡され,そのような命令に従うことを拒否する女たちは,女に対する裏切り者,男の共犯者と見なされてしまうのだ!

永遠の犠牲者,ファロス権力者 [ phallocrate ] という悪魔の支配のもとにある憐れな小物かつて魔術が信ぜられていた時代のように,そのような地位に女性たちをよりうまく拘束しておくために,万人の善の口実のもとに,女性の保護と解放を主張する議論を借用する.それは,清教徒主義のやり口だ.

事実,#MeToo は,密告や公開告発のキャンペーンを報道機関と SNS のなかに巻き起こした.そこで告発された諸個人は,返答することも自身を弁護することも許されないままに,まさに性暴力の加害者と同列に扱われた.既にこの即席裁判の犠牲となった男たちがいる.職務上,制裁を受けたり,辞任を強いられたり,等々.彼らが犯した唯一の過ちが,互いに惹かれ合っているわけではない或る女性に対して,その膝に触れた,口づけをかすめ取ろうとした,仕事関係の会食の際に「親密な」ことがらを話題にした,性的な含みを持つメッセージを送った,というようなことにすぎなくても.

「ブタ」どもを屠殺場へ送り込むことに熱狂するこの動きは,女性たちが自律的になるためには何ら役立っていない.むしろ,実際には,そのような動きが利しているのは,性の自由の敵である すなわち,宗教極右,最悪の反動勢力,および,善を実体的に考える思想とそれに伴うヴィクトリア朝的道徳との名のもとに,女性たちは「特別な」存在であり,大人の顔をした子どもであり,保護される必要がある,と考える者たち.

面と向かって,男たちは催促される 犯した罪を認めなさい.過去を振り返って,良心の奥底から探し出してきなさい.あなたは,10年前,20年前,30年前に「無礼なふるまい」をした.悔い改めなさい.そのように,公の場で告解するよう強いられ,検察官を自称する者らが私的な領域へ踏み込んでくる.かくして,全体主義的社会のような雰囲気が醸成される.

浄化の波は,とどまるところを知らないように見える.あちらでは Egon Schiele の裸婦のポスターが検閲され,こちらでは,ペドフィリアを弁護しているとの理由で Balthus の絵の美術館からの撤去が要請される.作家と作品との混同において,Cinémathèque française では Roman Polanski の回顧上映の禁止が求められ,Jean-Claude Brisseau の回顧上映は延期される.或る大学教授[女性]は,Michelangelo Antonioni の映画 Blow-Up を「女性蔑視」的で「容認しがたい」と断罪する.そのような修正主義の光のもとでは,John Ford の『捜索者』も,Nicolas Poussin の『サビニの娘たちの誘拐』さえも,追い詰められてしまう.

男性登場人物をもっと性差別をしない男のように描いてください,性や愛について語るときはあまり度を超さないでください,「女性登場人物の被るトラウマ」がもっと明白になるようにしてください わたしたちのうち幾人かは,既に編集者からそう求められている!ほとんどお笑いぐさだが,スエーデンでは「性関係を持つことを志願する者は必ず,明示的に通告された同意を[相手から]得るべし」という法律が作られる予定だそうだ!もっとがんばれば,こうなるだろう ふたりの大人がいっしょに寝たいと思ったら,あらかじめ,スマホのアプリに表示される書類にしかるべく列挙された「受容できる行為」と「拒絶する行為」の各項目にチェックを入れなければならない.

哲学者 Ruwen Ogien は,「不快にさせることの自由」[ liberté d’offenser ] を芸術的創造に必要不可欠のものとして擁護した.同様に,わたしたちは,「ハラスメントの自由」[ liberté d’importuner] を性の自由に必要不可欠のものとして擁護する.わたしたちは,今日,「性本能  [ pulsion sexuelle ] は本質的に不快にさせるものであり,飼いならされ得ない」ということを認めることができるほどに,十分に教えられている.だが,わたしたちは,また,不器用なナンパと性暴力とを混同しないでいられる程度に十分な洞察力を持っている.

なかんづく,わたしたちはこのことについて意識的である:人間存在は一枚岩ではない;ひとりの女は,同じ日のなかで,[昼間は]仕事のチームを指揮し,かつ,[夜は]男の性欲対象 [ objet sexuel ] であることを悦する [ jouir ] ことができる「売女」でも家父長制の卑しい共犯でもあることなく.自分の給料が男の給料と同等であるよう留意し,かつ,メトロのなかの痴漢によって決して癒されることのないほどに傷つけられたとは感じずにいることができる 痴漢は犯罪と見なされているとしても.痴漢をする男の性生活は非常に貧しいのだろうと考えたり,痴漢されてもたいしたことはなかったと思うことさえできる.

権力濫用を告発する域を超えて,男と性に対する嫌悪の容貌を取るあのフェミニズムのなかに,わたしたちは,女として,わたしたち自身の姿を見出さない.ハラスメントの自由がなければ,性的な申し出に対して否と言う自由もない,とわたしたちは思う.そして,ハラスメントの自由に対して,餌食の役割のなかに閉じこもる以外のしかたで答えることができるのでなければならない,とわたしたちは考える.

わたしたちのうちで子どもを持つことを選択した者たちのためには,わたしたちはこう思う:不安を持たされることも罪悪感を持たされることもなく自身の生を充実した生として生きることができるよう,十分な情報と十分な意識の高さを持つ そうなるようにわたしたちの娘を育てるのが,より適切である.

或る女性の身体を傷つけるかもしれない出来事は,必ずしも彼女の尊厳を傷つけるとは限らないし,そのような出来事がときとしてどれほど辛いものであるとしても,必ずしも彼女を永続的な犠牲者にすることになるとは限らない.わたしたちは,わたしたちの身体に還元され得るわけではないから.わたしたちの内的自由は,不可侵である.この自由を,わたしたちは大切に思う.そして,そこにはリスクや責任が無いわけではない.

参考 :「なぜフランス女性はハラスメントの自由を擁護できるのか?ラカン派精神分析の社会的効果」(小笠原晋也)

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