2017年4月6日

Lacan の墓にて

Jacques Lacan (1901 - 1981) の墓は,Paris の西北西約 50 km のところにある閑静な村 Guitrancourt墓地にあります.Paris 市内から車で 1 時間弱です.そこに所有していた別荘に,Lacan は頻繁に滞在しました.






わたしは,自身の分析の継続のために 2017年3月に一ヶ月間 Paris に滞在していた際,ふと思い立って,3月25日,Lacan の墓を訪れました.

墓地の入口から敷地の奥へ,なだらかな斜面を登って行きます.その一番高いところより少し手前の中央部分にふたつの墓が並んでいます.入口の方へ向かって左側が Lacan の墓です.その右側の墓は,Lacan の妻 Sylvia (1908-1993) のものかと思いきや,そうではなく,彼女の母親 Nathalie Maklès (1877-1960) の墓です.ちなみに,Sylvia の墓は,Paris 市内の Montparnasse 墓地にあるそうです.

今回の Paris 滞在中に急に Lacan の墓を訪れる気になったのは,わたし自身の分析の経過と無関係ではありません.ほかならぬ Lacan の夢を見たからです.Lacan と分析している夢です.

わたしは,日本にいて,自身が分析の経験にないときは,ほとんど夢をみませんが,Paris で分析の経験にあるときは,意義深い夢を見ることがあります.

今回見た或る夢のなかで,わたしは Lacan に分析を受けています.わたしの現在の分析家 Gérard Haddad との分析の際に寝椅子に横たわるのと同様に,夢のなかで,わたしは寝椅子かベッドに仰向けに横たわっています.

ちなみに,Lacan が用いていた寝椅子は,この Lacan の面接室の写真に見えるように,まったく背もたれが無く,ベッドのようです.




夢のなかで,わたしの頭の背後には,Lacan が座っています.実際の分析の際に Gérard Haddad がそうしているように.そして,夢のなかで,わたしは眠り込みます.Lacan は怒って,わたしを揺り動かして,目覚めさせます.分析の最中にわたしが眠り込んだので Lacan は怒ったのですが,わたしの頭のなかには「おいおい,これは夢で,今は睡眠中なのだから,眠り込んだって当然だろう」というような考えが浮かびます.しかし,同時に,若干の不安も感じます.そんな夢です.

この夢でかかわっているのは,明らかに filiation の問題です.親子関係にかかわる問いです.わたしの父は誰なのか?わたしは誰の息子なのか?それは,分析家に関して言えば,「この分析家は誰に教育分析を受けたのか?」という問いです.

わたしが Gérard Haddad を分析家に選んだのも,彼の著作『ラカンがわたしを養子にした日』のゆえです.その本の最後に語られる夢  Haddad Lacan の死後に見た或る夢 ‒ のなかで,Lacan Haddad にこう言います:「きみは,わたしの養子だ」.

日本語で「養子」と言うと「実子」との違いが注目されてしまいますが,フランス語では「養子」は « fils adoptif » です.たとえ養子ではあれ,とにかく fils[息子]です.

それに対して,Jacques-Alain Miller Lacan の gendre[娘婿,義理の息子]です.

Haddad が夢のなかで Lacan が「きみはわたしの息子だ」と言うのを聞いたのは,Jacques-Alain Miller との対立と葛藤の状況のなかででした.

fils adoptif[養子]対 gendre[義理の息子].どちらが正当な相続人ないし後継者なのか?

確かに Jacques-Alain Miller Lacan により遺産相続人と Séminaire 共著者に指定されましたが,しかし,彼は,Lacan の娘 Judith の夫として,つまり Lacan の家族の一員として,Lacan に分析を受けることはできませんでした.

誰が Lacan の教えの正当な相続人か?これは,わたしにとっても重要な問いでした.

夢のなかで,わたしは,Lacan に分析を受けて,彼の弟子(息子)のひとりとなることはできましたが,しかし,分析の最中に眠り込んで,Lacan の怒りを買い,不安を感じます.明らかに,夢のなかで,Lacan は,わたしにとって超自我を表しています.Lacan の怒りは,超自我の怒りです.

そのような怒りから自身を解放する必要があります.わたしが Lacan の墓を訪れる気になったのはそのような動機からだ,とその後の分析の経過のなかで明らかになります.

無神論の本当の公式は「神は死んだ」ではなく「神には意識が無い」である,と Lacan は言っています.神には意識が無い,つまり,神は何も知らない.

Lacan の墓のかたわらで,わたしはその公式を思い出しました.Lacan は今や,何も知らない.Lacan の教えの相続人や後継者が誰であろうと,彼の教えを誰がどうしようと,今や,Lacan は何も知らない.そんなことは,死せる Lacan にとって,どうでもよいことだ.Lacan の墓のかたわらで,わたしはそう感じました.今回の Lacan の墓参りの収穫です.

Lacan の墓のことを話したので,Freud の墓のこともちょっと話そうと思い,適当な写真を Internet で探そうとしたところ,2014年 月の或る新聞記事が目にとまりました.今まで全然気づいていなかったニュースです.


Freud の遺体は火葬に付され,その遺灰は,彼の妻の遺灰とともに,彼の収集品のひとつだった大きな古代ギリシャの壺に入れられ,London 北郊外の Goldersgreen の火葬場の敷地内に幾つかある納骨堂の建物のひとつのなかに収められています.わたしは,1985-1986年の Tavistock Clinic 留学を切り上げて,Paris に転居する直前,Freud の墓と Freud Museum を見学してきました.当時,彼の屋敷はまだ Museum として一般に公開されていませんでしたが,特別に見学を許可してもらいました.

Freud の遺灰を収めた壺は,上の写真のように,高さ 1.5 m くらいの柱の上に置かれており,その近くの壁に作りつけられた棚には,Anna Freud を含む Freud の子どもたちの遺灰を収めた金属製の箱が幾つか置かれています.

2014年 15日付の新聞記事によると,2013年大晦日の晩に盗賊が納骨堂に忍び込み,Freud の骨壺を盗み出そうとしたが,誤って落下させてしまい,壺は大破してしまったそうです.古代ギリシャの壺を骨董品として売り飛ばそうとしたのでしょう.床に撒き散らされた遺灰は,2014年元旦,火葬場の職員により回収されました.その後,Freud と彼の妻の遺灰がどのような容器に収められたのかに関しては,Internet では特に記事が見当たらず,不明です.ともあれ,以前のように簡単に誰でも Freud の墓(というか,骨壺)参りをすることができる,というようにはもはやなっていないでしょう.

骨壺を壊されて,Freud は怒っているでしょうか?そう想像する人もいるかもしれません.しかし,実際には,死せる Freud は何も知りません.死せる Lacan が何も知らないのと同様に.

ところが,死者の知に戦々恐々としている人々は少なくありません.特に,家父長主義者たちは.

家父長主義者たちにとって超自我を成すのは,祖霊,つまり「御先祖様」たちです.死せる先祖たちは,今生きている子孫たちのことを監視しており,子孫たちが何を為しているか,何を怠っているかについてすべて知っており,意向に背く子孫たちを処罰する.そのように思い込んでいる家父長主義者たちは,祖霊という超自我にがんじがらめにされています.

家父長主義者たちは,祖霊という厳しい超自我に服従する限りにおいてのみ,家督ないし遺産の正当な相続人として,存在することが許されます.祖霊を崇拝し,祖霊の意志に服従することは,家父長主義者たちにとって,自身の存在の可能性の条件です.日本,中国,韓国のいずれでも,事は同様です.

キリスト教でも,神はすべてを知っており,罪を犯した者らに罰をくだすではないか?と反論する人がいるかもしれません.しかし,それは,神の愛を識らない人々が抱く否定的な思い込みにすぎません.

神は,すべてを知り得るかもしれませんが,しかし,神は忘却してもくれます.「死んでも忘れない」というような怨みごとは言いません.

旧約聖書でも新約聖書でも,神は人間の罪を赦してくださることが強調されています.そして,いったん赦した罪のことを,神は忘却してしまいます.いったん赦された罪のことは,神の記憶から消し去られてしまいます.閻魔帳の記録のようにいつまでも消えないということはありません.

それは,神の愛のおかげです.人間が自身の罪を悔い,赦しを求めるなら,神は,慈しみ深く,罪を赦し,その罪のことを記憶にとどめてはおきません.

それに対して,神を識らない日本人,中国人,韓国人たちは,先祖が犯した罪,先祖が被った不正義を,決して忘れず,恐怖と怨念に囚われ続けます.日本人と中国人と韓国人の一種の道徳的サドマゾヒズムが,今も国際問題の解決を困難にしているだけでなく,日中韓の三つの国におけるキリスト教と精神分析に対する共通の抵抗となっているかもしれません.

神は忘れてくれますが,祖霊は決して忘れない.無慈悲なものです.

2017年3月3日

Séminaire XVII『精神分析の裏』第 X - XIII 章の解説

Lacan 1969-1970年の Séminaire XVII『精神分析の裏』の第 X - XIII 章をまとめて,Jacques-Alain Miller  L'envers de la vie contemporaine[現代生活の裏]と題しています.この表題は,Balzac の最後の小説 L'Envers de l'histoire contemporaine[現代史の裏]の表題に基づいています.というより,それに言及する際に « L'Envers de l'histoire contemporaine » と言う代わりに « L'Envers de la vie contemporaine » と言った Lacan の思い違いを Jacques-Alain Miller はそのまま利用したのです.

現代生活の裏,現代社会の裏... しかし,だからといって Lacan は社会学的なことを語るわけではまったくなく,而して,否定存在論的構造について,四つの言説を用いて説明を続けます.






否定存在論的構造について,Lacan はさまざまな道具立てを用いて思考します.おもだったものは,投射平面のトポロジーとボロメオ結びです.

上のように図式化することによって,我々は次のふたつのことに改めて気づかされます:ひとつは,「真理」の概念の変化;もうひとつは,学素 S(Ⱥ) の根本的な重要性です.

四つの言説の公式化以前,Lacan は vérité を次のように位置づけていました:



この図において,V は vérité, Sc は science であり,両者の間の切れ目を成すのは objet a です.1965-66年の Séminaire XIII L'objet de la psychanalyse で提示された図です.その年度の初回講義は,Écrits の最後の書である La science et la vérité[科学と真理]です.そこにおいて Lacan は,科学と主体との相関について問いつつ,主体の分裂を「知と真理との間の分裂」(Écrits, p.856) と公式化しています.

それを Saussure 的な学素 signifiant / signifié にならって形式化するなら:


この構造は,四つの言説においては「大学の言説」として形式化されることになります:


主体の分裂を「知と真理との間の分裂」と公式化する場合,その「真理」は,主体の 存在 $ としての実在 [ le réel ] のことです.

それに対して,四つの言説においては,真理の座は左下の座です.それは,穴としての徴在 [ le symbolique ] の位に相当します.

かくして,四つの言説の公式化において Lacan は真理の概念を変更した,と確認されます.従来,真理は,解脱実存としての実在のことでした.それに対して,四つの言説においては,真理は,穴としての徴在として定義されます.

次に,学素 S(Ⱥ) について.

S(Ⱥ) は,或る意味で精神分析の alpha かつ omega です – なぜなら,以下に見るように,それは,徴示素が徴示素として機能するための可能性の条件であり,かつ,Lacan が1965年6月16日の講義の終わりで « le terme de l'analyse est ce que j'ai inscrit dans le symbole S(Ⱥ) »[精神分析の終結は,わたしが記号 S(Ⱥ) において記入したところのものである]と言っているように,其こに精神分析の終わりが存するところのものでもあるからです.

1960年のテクスト『Freud 的無意識における主体のくつがえしと欲望の Dialektik』において,S(Ⱥ) は « signifiant d'un manque dans l'Autre [ en tant que trésor du signifiant ] »[徴示素の宝庫としての他のなかの欠如の徴示素](Écrits, p.818) と定義されます.そして,徴示素の宝庫としての他の場処における欠如が如何なるものであるかを示す公式が,これです : « il n'y a pas d'Autre de l'Autre »[他の他は無い](ibid.).

「他の他は無い」とは如何なることか?それは « Sans-Foi de la vérité » (ibid.) である,と Lacan は続けて言っています.つまり,無意識において語る何かは実在としての真理そのものであるとしても,その真理の言うことが真であると保証するものは何も無い,ということです.

かくして,« nul langage ne saurait dire le vrai sur le vrai »[如何なる言語も,真について真を言うことはできない](Écrits, p.867). そこのとを Lacan は « il n'y a pas de métalangage »[メタ言語は無い]とも公式化します.

「他の他は無い」について,投射平面のトポロジーにおいて見てみましょう.徴示素の宝庫 [ le trésor du signifiant ] としての他の場処 [ le lieu de l'Autre ] は,穴あき球面です.それに対する「他の他」は,穴あき球面に対して ek-sistent な Möbius strip の曲面です.より正確には,「他の他」の座は,Möbius strip の曲面によって表される localité ex-sistente de l'être, ek-sistente Ortschaft des Seins, 存在 の解脱実存的在処です.

さらにより正確に言うと,「他の他は無い」は,単純に「他の他」がひとつの存在事象として存在することを否定しているのではなく,而して,次のふたつのことを公式化しています : 1)「他の他」の座は 存在 の解脱実存的な在処である ; 2) その解脱実存的在処は本来的には空座(空所,空処)である.

ところで,Séminaire XVII の第 VI - IX 章において見たように,Möbius strip の曲面によって表される 存在 の解脱実存的在処は,源初的に去勢された死せる父の座であり,かつ,「性関係は無い」の根拠を成す不可能な phallus φ の座です.

かくして,「他の他は無い」と「性関係は無い」とは相互に等価であることが,改めて確認されます:

« il n'y a pas d'Autre de l'Autre » ≡ « il n'y a pas de rapport sexuel »

無き「他の他」を形式化するとすれば,その学素は Ⱥ であるのが自然でしょう.しかし,我々としては,学素 $ にならって,学素 Ⱥ を「他の欲望」の学素として用いたいと思います.それによって,幻想 ( $a ) の可能性の条件であるより根本的な構造を明確にこう公式化することができます:


この学素 Ⱥ ◊ φ こそが,性関係を可能にするかもしれない phallus の根本的な不可能性のゆえに他の欲望 Ⱥ の満足も根本的に不可能であることを,より正確に形式化しています.

さらに,この学素は,穴 Ⱥ と解脱実存 φ とは明確に区別さるべきであることを,改めて気づかせてくれます.前者は徴在の位,後者は実在の位です.

では,Ⱥ と φ とを分離しつつ結合している ◊ は何なのか?上の図において明らかなように,それは,投射平面のトポロジーにおいては穴のエッジであり,かつ Möbius strip のエッジでもあるものとしての S(Ⱥ), ボロメオ結びにおいては R, S, I の三つの輪をボロメオ的に結ぶ第四の輪としての S(Ⱥ) です.

S(Ⱥ) にそのように consistance[定存]を認めて良いのか?そのことを改めて検討してみましょう.そのために,S(Ⱥ) が « signifiant d'un manque dans l'Autre »[他のなかの欠如の徴示素](Écrits, p.818) と定義された『主体のくつがえし』のテクストに戻りましょう.

その定義に続いて,Lacan はこう述べています :
nous partirons de ce que le sigle S(Ⱥ) articule, d'être d'abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n'y en a pas d'autre) est : un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant. Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n'est représenté que pour. Or la batterie des signifiants, en tant qu'elle est, étant par là même complète, ce signifiant ne peut être qu'un trait qui se trace de son cercle sans pouvoir y être compté.  
我々は,この記号 S(Ⱥ) が述べていること – それは,まず,ひとつの徴示素である,ということ – から出発しよう.我々の「徴示素」の定義は,こうである(徴示素のほかの定義は無い): ひとつの徴示素,それは,主体を代表するものである – もうひとつのほかの徴示素に対して.この徴示素 S(Ⱥ) は,したがって,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である:すなわち,もし仮にこの徴示素 S(Ⱥ) が無いならば,ほかの徴示素すべては何も代表しないことになるであろう.というのも,主体が代表されるのは ... に対してでしかないからである.ところで,徴示素の集合は,それが存在する限りにおいて,そのことそのものによって完全であるのであれば,この徴示素 S(Ⱥ) は,徴示素の集合の円によって描かれる線でしかあり得ず,徴示素の集合のなかに数え入れられることはできない.
この一節において « batterie »[複数の要素のひとそろい,ひと組み]を「集合」と訳すのは,確かに,翻訳としては正確ではありません.しかし,Lacan は明らかに「集合」の概念を念頭に置いています.彼が「円」と言うとき,それは,初歩的な集合論において用いられる Venn diagram においてひとつの集合を表す円のことです.

ともあれ,以上からこう結論することができます : S(Ⱥ) は,徴示素の宝庫としての他の場処に属してはいないひとつの特別な徴示素である.その意味において,S(Ⱥ) はひとつの「他の他」であり,そのものとして consistant[定存的]である.

S(Ⱥ) がひとつの「他の他」であることは,「他の他は無い」と矛盾してはいません.そも,後者の言うところの無き「他の他」は,書かれないことをやめない不可能な phallus φ のことです. それは,実在の位 – Möbius strip の曲面 – に相当します.それに対して,S(Ⱥ) は,穴と Möbius strip とのエッジに相当します.ボロメオ結びにおいては,実在,影在,徴在の三つの輪をボロメオ的に結び合わせる第四の輪を成します.

四つの言説における右上の座 – Lacan が曖昧さ無しにでなく la place de l'autre[他者の座]と定義する座 – は,実は,そのようなものとしての S(Ⱥ) に相当している.我々はようやく,そのことを明確に把握することができます.

徴在の穴のエッジを成す S(Ⱥ) こそは,1953年に Lacan が « le support de la fonction symbolique »[徴在の機能の支え](Écrits, p.278) と規定する Nom-du-Père[父の名]にほかなりません.それがボロメオ結びの第四の輪を成すことを,実際,Lacan は1975-1976年の Séminaire XXIII Le sinthome において明確に提示しています.

しかし,そのような父の名は,Lacan が「詐欺師」と批判する「立法者」でしょうか?

「立法者」について Lacan はこう言っています : « C'est en imposteur que se présente pour y suppléer le Législateur (celui qui prétend ériger la Loi) »[他の他は無いことに対して代補するために立法者(我れこそは法を立てる者なりと主張する者)が現れるのは,詐欺師としてである](Écrits, p.813).

「他の他は無い」は「性関係は無い」と等価です.性的に悦することができないのは,実は,性関係を実現し得る phallus が不可能であり,それによって性関係の悦は不可能であるからです.

それに対して,詐欺師的な立法者は「悦するなかれ」と命令します.悦することは禁止されている,なぜなら我れが悦の禁止の律法を立てたから.オィディプス複合における父こそが,そのような詐欺師的立法者です.そのように禁止命令を発する父は,支配者の座,つまり,四つの言説における左上の座 – la place de l'agent, 能動者の座,代表者の座 – に位置します.

それに対して,S(Ⱥ) としての父の名は,右上の座そのものを成します.その座は,支配者に対して他者である者の座,すなわち,奴隷の座です.それは,「他の他は無い」に対する代補ではなく,「他の他は無い」ことを支えるものであり,それによって実在,影在,徴在の三位から成る否定存在論的構造を可能にするものです.Lacan が詐欺師と批判する立法者ではありません.


精神分析の終結は S(Ⱥ) に存する  つまり,精神分析の終わりは,絶対的な支配者に成ることに存するのではなく,而して,奴隷として 存在 により自有され,かくして,存在 の解脱実存的な在処を支えることに存します.

そのとき,他の欲望 Ⱥ は,S(Ⱥ) において,昇華を得ます.分析の終結における昇華は,何らかの悦の実現ではなく,而して,悦の不可能性を支えることに存します.

Lacan は,1963年03月13日の講義でこう述べています : « seul l'amour-sublimation permet à la jouissance de condescendre
au désir »[愛-昇華のみが,悦が欲望に応じてやることを可能にする].

精神分析の終結としての欲望の昇華 S(Ⱥ) において,悦はその不可能性において欲望に応ずることになります.そのような昇華こそが,「持っていないものを与える」こととしての愛です.それが,本当の意味での神の愛との出会いです.そして,S(Ⱥ) として自有において生きる者のみが,本当に隣人愛を実践することができます.

2017年2月9日

Des status divers du petit a

Pourquoi Lacan a-t-il inventé les quatre discours ? Il y aurait certainement plusieurs raisons, mais une en est sûrement ceci : pour expliquer des différents statuts du petit a.

Partons de cette définition triadique de la structure topologique du parlêtre que Lacan nous présente dans la Position de l’inconscient (Écrits, p.839) :

« elles [ c’est-à-dire fermeture et ouverture ] donnent à deux domaines leur mode de conjonction. Ce sont respectivement le sujet et l’Autre, ces domaines n’étant ici à substantifier que de nos thèses sur l’inconscient. Le sujet, le sujet cartésien, est le présupposé de l’inconscient. L’Autre est la dimension exigée de ce que la parole s’affirme en vérité. L’inconscient est entre eux leur coupure en acte ».


Et voyons les correspondances entre la topologie apophatico-ontologique, la triade d’RSI et la structure des quatre discours :


le lieu de l’Autre ‒ la sphère trouée (le disc) ‒ la consistance de l’imaginaire ‒ la place de l’agent ;

la localité du sujet ‒ la bande de Möbius ‒ l’ex-sistence du réel ‒ la place de la forclusion et de la production ;

les bords de la coupure et de l'identification ‒ le trou du symbolique ‒ la place de l’autre et celle de la vérité.


Dans le discours du maître, le petit a dans la place de la production est le plus-de-jouir refoulé dans la place du phallus φ impossible et foncièrement forclos. Là, le petit a est de l’ordre du réel.



Dans le discours de l’hystérique et le discours de l’université qui est le discours de l’obsessionnel, le petit a est le trou ou la coupure de l’ordre du symbolique même.



D'ailleurs, dans son Séminaire XIII L’objet de la psychanalyse, Lacan nous présente un schéma de l'aliénation comme ceci :



Là, l’objet a est la coupure entre le savoir et la vérité. Cette structure qui est celle de la Science, n’est rien d’autre que le discours de l’université.



Enfin, dans le discours de l’analyste, le petit a se présente comme semblant qui représente le savoir S
2 supposé dans la place de la vérité. Là, le petit a est de la consistance de l’ordre de l’imaginaire.



Mais, comme j'ai déjà dit dans mon petit article Du a en superposition du réel, de l'imaginaire et du symbolique, on peut penser aussi que le petit a a un état de superposition des trois ordres du réel, de l'imaginaire et du symbolique.


2017年2月3日

Séminaire XVII 『精神分析の裏』 第 VII, VIII, IX 章の解説

東京ラカン塾精神分析セミネールでは,2017年01月06日,13日,20日に Séminaire XVII L'envers de la psychanalyse精神分析の裏] 第 VII, VIII, IX 章の解説を行いました.それら三つの章は,第 VI 章とともに,「オィディプス複合の彼方」と題された第二部を形成しており,密接に連関しています.まとめて解説しましょう.

そこにおける Lacan の意図は,Freud が準拠した父殺し神話が表している存在論的構造を明らかにすることに存します.

そもそも,Lacan は何のために教えたのか? 基本的に言って,その全体において,Lacan の教えは,精神分析を純粋 [ pur ] に基礎づけることに存します.

「純粋に」とは,「非経験論的 [ non empirique ] に」ということです.すなわち,生物学,医学,心理学,社会学などの経験科学を一切前提とせずに.

1964年01月15日,Séminaire XI Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse [精神分析の四つの基礎概念] の初回講義の冒頭で,Lacan はこう宣言します : « je vais vous parler des fondements de la psychanalyse » [わたしは,あなたたちに,精神分析の基礎について語ろう].

そして,彼の教えの最晩年,Séminaire XXV Le moment de conclure [今や結論するときだ] の1978年04月11日の講義で,Lacan はこう言います : « Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel, c'est le fondement de la psychanalyse » [性関係は無い:それが精神分析の基礎である].

この簡潔な公式:「性関係は無い」は,単に,「性関係」と呼ばれるひとつの存在事象の不在なり欠如なりを言い表しているのではありません.そうではなく,この « il n'y a pas » [無い] は,「徴在の明るみへ一度も来たことのないもの」 (« ce qui n'est jamais venu au jour du symbolique », Ecrits, p.388) にかかわっています.言い換えると,Heidegger が「存在論的差異」 [ die ontologische Differenz ] と呼ぶところのもの – 存在事象と存在との差異 – によって存在事象の場処 [ lieu ] とは根本的に隔てられ,存在事象の場処に対して解脱実存的 [ ek-sistent ] である存在の在処 [ la localité de l'être, die Ortschaft des Seyns ] にかかわっています.

この « il n'y a pas »  は,存在の在処と存在論的差異とにかかわる限りで,ひとつの存在論的な公式です.そして,この根本的な « il n'y a pas » を包含する存在論を,我々は「否定存在論」 (l'ontologie apophatique, die apophatische Ontologie) と名づけます.

apophatique という形容詞は,伝統的には「否定神学」 (théologie apophatique) という名称において用いられてきたものです.それは,無限にして永遠なる神に関して,「神は ... である」という肯定命題を措定することは,神を有限にしてしまうことであるであるので,神については否定命題で語るべきである,という思考です.

我々はこう言います:神は,ひとつの存在事象ではない.存在事象の場処に対して ex-sistent [解脱実存的] である在処こそが,神の座である.したがって,神に関して,存在事象に妥当し得る何らかの賓辞を以て「神は ... である」と措定することはできない.

ともあれ,否定存在論は,精神分析の基礎を成す存在論です.それを Lacan は,Heidegger から抽出してきました. 

Heidegger が1955年に発表した Zur Seinsfrage [存在の問いのために] という論文のなかで,Lacan は,否定存在論の根本的な学素に出会いました.これです:




Sein という単語をバツ印で抹消して表記することはここでは技術的に困難なので,これを以てその代わりとします : Sein

わたしは,これを初めて見たとき,直観的に,これにならって Lacan は「抹消された主体」 [ le sujet barré ] の学素 $ を作ったのだ,と思い当たりました.実際,Lacan が学素 $ を導入するのは1958年のことです.

この学素 Sein または Seyn は,1941-1942年に執筆され,2009年に出版された Heidegger の手稿 Das Ereignis (GA 71) のなかにも見出されます.それが初出かどうかは,今のところ定かではありません.

Sein [存在] という語を書くなら,それを抹消せねばならない.それは,存在を存在事象と同様に対象化することのないようにするためだ,と Heidegger は言っています (cf. Zur Seinsfrage, in GA 9, pp.410-411).

「バツ印で抹消する」は,ドイツ語で durchkreuzen です.Kreuz は「十字架」であり,kreuzigen は「十字架にかける」です.十字による抹消は,十字架に架けられた Jesus の処刑を想起させます.処罰,罪,死,禁止などを連想させます.そして,死から永遠の命への復活も.

さて,Zur Seinsfrage の一節 (GA 9, pp.415-416) を読んでみましょう:
Sein verbirgt sich. Es hält sich in einer Verborgenheit, die sich selber verbirgt. In solchem Verbergen beruht jedoch das griechisch erfahrene Wesen der Vergessenheit. Sie ist am Ende, d.h. aus dem Beginn ihres Wesens her nichts Negatives, sondern als Ver-bergung vermutlich ein Bergen, das noch Unentborgenes verwahrt. 
存在は,自身を秘匿する.それは,秘匿性のうちに自身を保持する.その秘匿性そのものも,秘匿されている.しかるに,そのような秘匿にこそ,ギリシャ的に経験される忘却 [ λήθη ] の本有は存している.忘却 [ λήθη ] は,つまるところ,すなわち,その存有の始まり以来,否定的なものではなく,而して,「秘-匿」として,おそらく,なおも啓匿されざるものを保存するひとつの保匿であろう.
Die Seinsvergessenheit gehört zur Sache des Seins selbst, waltet als Geschick seines Wesens. Die recht bedachte Vergessenheit, die Verbergung des noch unentborgenen Wesens des Seins, birgt ungehobene Schätze und ist das Versprechen eines Fundes, der nur auf das gemäße Suchen wartet. Um solches zu vermuten, bedarf es keiner prophetischen Gabe und nicht der Manier von Verkündern, sondern nur der jahrzehntelang geübten Achtung des Gewesenen, das sich im metaphysichen Denken des Abendlandes bekundet. Dieses Gewesene steht im Zeichen der Unverborgenheit des Anwesenden. Die Unverborgenheit beruht in der Verborgenheit des Anwesens. Dieser Verborgenheit, in der die Unverborhenheit (Ἀλήθεια) gründet, gilt das Andenken. Es denkt jenes Gewesende an, das nicht vergangen ist, weil es das Unvergängliche in allem Währen bleibt, das je das Ereignis des Seins gewährt.
存在忘却は,存在の本事に属しており,存在の本有の運命として作用している.存在忘却は,正しく考察されるなら,存在の未啓匿な存有の秘匿であり,未発掘の宝を保匿しており,適切な探索をしさえすればその宝は発見されるだろうという約束である.そのようなことを推察するために必要なのは,預言者の才能や作法ではなく,而して,ただ,西洋の形而上学的思考のなかで自身を表示している既往存有事象を尊重することに数十年にわたり熟達することだけである.その既往存有事象は,現在存有事象の非秘匿性の徴のもとにある.非秘匿性は,現在存有の秘匿性に基づいている.其こに非秘匿性 (Ἀλήθεια) が基づくところのこの秘匿性にこそ,思い馳せは向けられる.思い馳せが思い馳せる既往存有事象は,過ぎ去ってはいない.なぜなら,それは,毎次,存在の自有が恵み与えるあらゆる存続において,過ぎ去らざるもの [不滅のもの] であり続けるから.

Heidegger が「適切な探索」と呼んでいるものは精神分析にほかならない,と我々は言うことができます.Heidegger は決して同意しないでしょうが.

ともあれ,引用した一節を否定存在論的構造にもとづいて読解してみましょう.本来は,上の一節から否定存在論的構造を導き出すべきですが,それはあまりに手間がかかりすぎますから,別稿で試みます.



図 1

Heidegger は,一方に ἀλήθεια と Unverborgenheit を置き,他方に λήθη と Verborgenheit を置きます.後者は,die ek-sistente Ortschaft des Seins, la localité ex-sistente de l'être存在解脱実存的な在処]であり,ex-sistence [解脱実存]としての l'ordre du réel [実在の位]です.前者は,穴としての l'ordre du symbolique [徴在の位]であり,Heidegger の用語では,存在論的差異,Lichtung [朗場],Austrag [解和] に相当します.個々の存在事象は,l'ordre de l'imaginaire [影在の位] に属しています.

Lacan の実在,徴在,影在の三位と,否定存在論的トポロジーとの対応は,以上のごとくです.

否定存在論は,必然的にトポロジーとして展開されます.なぜなら,抹消された存在 Sein は,そのものとしては,存在事象のようにひとつの対象であるわけではないからです.そうではなく,存在事象が位置する空間とは異質な空間を考えねばなりません.

そのために Lacan は,最も単純に,曲面のトポロジーを利用します.閉曲面 [ closed surface ] の一種,投射平面 [ projective plane ] です.



図 2

投射平面は,適切な切れ目によって,ひとつの円板と homeomorphic な穴開き球面と Möbius strip とへ切り分けられます(図 1 を参照). 投射平面は,三次元のユークリッド空間のなかでは完全に表象され得ません.cross-cap (図 2)と呼ばれる投射平面の immersion (三次元ユークリッド空間における表象)においては,交線として描かれている線分において,穴開き球面のエッジは閉じられているように見え,ユークリッド空間の外へはみ出した Möbius strip の曲面は,口を閉じた穴開き球面によって隠されてしまっています.

そのような cross-cap のトポロジーは,Heidegger が秘匿性と呼ぶ存在の在処の解脱実存性について思考するために,うってつけの思考モデルを Lacan に提供します.

Freud が Verdrängung [排斥]と呼ぶものは,或る signifiant [徴示素]が穴開き球面(影在の位)から Möbius strip の曲面(実在の位)へ移動した,ということです.すなわち,Möbius strip は,Freud が das Unbewußte [無意識]と呼ぶ場に相当します.

Verdrängung に対して Lacan が forclusion [閉出]と呼ぶものは,解脱実存的な在処そのものにかかわります.すなわち,源初にひとつの閉出が起こります.性関係を可能にするかもしれない phallus が閉出されます.それによって,この phallus は不可能な phallus になります.書かれないことをやめない phallus です.我々はそれを次の学素を以て形式化します:




図 3

図 3 においては,否定存在論的トポロジーと四つの言説の構造との相関が示されています.


図 4

図 4 においては,aliénation-séparation [異化-分離]の図と否定存在論的トポロジーとの相関が示されています.


図 5

図 5 では,如何に精神分析の過程が,他の欲望 Ⱥ に関する問い Che vuoi ? [何を汝れは欲するか?] から出発して,欲望の昇華 S(Ⱥ) へ至るかを示しています.

ところで,否定存在論的構造は,源初的な所与でしょうか?哲学者なら然りと言うかもしれません.しかし,Lacan はそうは考えません.臨床的にも,小児自閉症においては否定存在論的構造の或る種の形成不全がかかわっており,また,精神病においては,構造の解体とそれに対する代補形成が起こります.

Lacan は,否定存在論的構造の可能性の条件について問うことをやめませんでした.それは,精神分析がこの構造を解体すること – 切れ目によって,Möbius strip から穴開き球面を切り離すこと – に存するからです.影在(穴開き球面)と実在(Möbius strip の曲面)との切り離し,ないし分離の可能性は,否定存在論的構造の可能性に包含されていなければなりません.

欲望のグラフ(図 5)において,Lacan は,精神分析の終結を「欲望の昇華」を以て規定し,学素 S(Ⱥ) を以てそれを形式化しています.

ところで,« signifiant du manque dans l'Autre » [他のなかの欠如の徴示素] (Ecrits, p.818) と定義される S(Ⱥ) は,« le trait qui se trace de son cercle » [その円によって描かれる線] (ibid., p.819) にほかならない,と Lacan は言っています.つまり,図 1 ないし図 3 において,他の場処 [ le lieu de l'Autre ] である穴開き球面の穴のエッジが其れであるところの円周の線が,S(Ⱥ) です.

S(Ⱥ) は,「他のなかの欠如の徴示素」ですが,ひとつの特別な徴示素です.そも,それは,« le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien » [其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素であり,すなわち,もし仮にそれが無ければ,ほかの徴示素は何も代表しなくなるだろう] (ibid., p.819).  

かくして,S(Ⱥ) は,ひとつの徴示素と定義されはしても,« sans pouvoir y être compté » [徴示素のセットのなかには算入され得ない] (ibid., p.819), すなわち,ほかの徴示素すべてが属する「徴示素の宝庫」としての他の場処に属していません.

Lacan は S(Ⱥ) を trait [線,すじ]と呼んでいます.果たして,この trait を如何なるものと捉えるべきでしょうか?それは固有の定存 [ consistance ] を有しているのでしょうか?

もし精神分析の終結が S(Ⱥ) の自有に存するならば,すなわち,影在の位も実在の位も空座となり,ともに徴在の位の穴へ還元され,その穴が穴として存有することに存するならば,S(Ⱥ) は固有の定存を有していることになります.

S(Ⱥ) がそれ固有の定存を有しているならば,S(Ⱥ) は,精神分析の終結においてかかわるだけでなく,そもそも言語存在の源初において,徴在の穴の存有を可能にするものであることになります.ボロメオ結びのトポロジーにおいては,S(Ⱥ) は,実在,徴在,影在の三つの輪をボロメオ的に結ぶことを可能にする第四の輪である,ということになります.実際,Lacan も,最晩年,四つ輪のボロメオ結びについて思考し続けています.

さて,冒頭にも述べたように,1970年 2月18日,3月11日,18日,4月15日の四つの講義は,「オィディプス複合の彼方」と題された第二部を成しています.Lacan 自身は « au-delà du mythe d'Oedipe » [オィディプス神話の彼方] (p.143) と言っています.すなわち,父殺し神話の虚構のなかに保匿されている実在について問うことが,かかわっています.

オィディプス神話にせよ,Urvater 神話にせよ,父殺し神話においては,当然ながら,父は最初は生きており,次いで息子によって殺害されます.生前の父は,母(自身の妻)と性関係を持っており,あるいは,一族の女すべてを独占しています.つまり,性的に全能です.もし仮にそのような父が現存していたならば,根本的な「性関係は無い」は否定され,少なくとも当初は父と母との間に – または,父と一族の女たちとの間に – 性関係は可能であった,ということになります.次いで,父殺しの効果として制定される律法によって,または,以前から定められていた律法によって,母または一族の女たちとの性関係 – すなわち,近親相姦 – は禁止される,ということになります.

しかし,そのような父殺し神話は Freud の夢である,と Lacan は断言します (cf. pp.135 et 159). つまり,Freud の神経症的虚構創作です.

その虚構が保匿している実在は,これです:父は,源初から,去勢されており,死んでいる.すなわち,生きており,性的に全能である Urvater の正反対です.

むしろ,Urvater は不可能である  不可能,すなわち,実在です.

ところで,父は源初から死んでいるのですから,子が父を殺したわけではありません.にもかかわらず, 子は,みづから行ったわけではない父殺しのゆえに,源初から有罪です.それが,キリスト教神学の言う原罪です.



死せる父の座は,四つの言説の構造においては,右下の生産の座です.分析家の言説では,支配者徴示素 S1 がそこに置かれています.否定存在論的トポロジーにおいては,Möbius strip の曲面が死せる父の座です.


四つの言説の四つの座そのものが如何なるものかから出発するなら,右下の生産の座は,源初的に閉出された不可能な phallus の座です.左下の真理の座は,不可能な phallus によってしか満たされ得ない欲望 Ⱥ – すなわち,満足不可能な欲望 Ⱥ – の座です.


この不可能な関係の学素が,「性関係は無い」 [ il n'y a pas de rapport sexuel ] の学素です.

欲望 Ⱥ は phallus φ の不可能性のゆえに満たされ得ないという事態について,Lacan は,真理の座と生産の座との間には障碍 [ barrière ] がある (cf. p.124), あるいは,« il n'y a pas de rapport sexuel » の « pas » がある (cf. p.151) と言っています.

ただし,Seuil 版 p.151 において,Lacan が « le pas fait par la jouissance » と言っているのに対して,Jacques-Alain Miller は « l'obstacle fait par la jouissance » と書いています.おそらく,この « pas » が « il n'y a pas de rapport sexuel » の « pas » であることを読み取ることができなかったのでしょう.

支配者徴示素 S1 が不可能な phallus φ の座に位置しているということ,それが,父は源初において既に死んでおり,かつ,去勢されている,ということです.

父殺し神話という虚構が保匿する実在は,性関係の可能性の条件である phallus の不可能性という実在です.