2017年8月3日

An additional question about the paternal function in Lacan's sexuation formulae

Our friend who had posed me a question about Lacan's formulae of sexuation posed me another question : why is the paternal function ($x) ØΦ(x) situated on the place of $, not on the place of S1 ?




As far as the male sexuation formulae are concerned, the exact place of the paternal function ($x) ØΦ(x) is indifferent because it is only supposed that there ex-sists an x such as ØΦ(x). What is true is Ø($x) ØΦ(x) : there doesn't ex-sist any x which has the impossible phallus of the impossible sexual relation, as it is formulated in the female sexuation formulae.





When Lacan says in his Séminaire XVII L'envers de la psychanalyse that the Father is castrated and dead since origin, that Father is the empty locality as such of the 
ex-sistence (coloured red).





So you can say, if you like, that in the male sexuation formulae the ex-sistent Father is S1 in the discourse of university where S1 can be considered as the empty hole of the inexistent Urvater killed by his sons.

What matters is that the sons (i.e. all the men) are believing in the ex-sistence of the dead Father who would castrate them so that they can not be free from castration anxiety.

2017年7月29日

Some explications of male formuae of sexuation

Someone posed me a question : in the formulae of sexuation Lacan says that men totalize themselves with the phallic function : ("x) Φ(x), and that this totalization is based on the exception of the paternal function : ($x) ØΦ(x). How can we understand that ? What does it mean exactly that the paternal exception makes possible the set of men ?

We can write the formulae of sexuation in this way :

Man : ("x) Φ(x) Ù ($x) ØΦ(x)
Woman : Ø("x) Φ(x) Ù Ø($x) ØΦ(x)

where the symbol Ø is the symbol of negation.

If we see those formulae in the way of ordinary symbolic logic, they are simply contradictory. So we need another way of interpretation of them.

In the formula ("x) Φ(x), the phallus Φ is the masculin ego ideal which permits identification of a son with his father (the first of the three types of identification Freud enumerates in his Massenpsychologie und Ich-Anayse). By virtue of this phallic identification men can totalize themselves into the set defined by the formula 
("x) Φ(x).

But the phallus Φ of the masculin ego ideal is only possible in its correlation with the impossible phallus of the Father (Urvater) ØΦ(x) which could realize the impossible sexual relation (of course that is impossible).

The formula ØΦ(x) is not a simple negation of Φ(x). The paternal phallus ØΦ is impossible and ex-sistent to the phallus Φ of sons.

So we should read the formula ($x) ØΦ(x) in this way : for men it is supposed that there ex-sists x which has the impossible phallus of the impossible sexual relation.

About the formula ("x) Φ(x) Lacan says in L'étourdit (Autres écrits, p.458) : « tout sujet (...) s’inscrit dans la fonction phallique pour parer à l’absence du rapport sexuel » [ every subject is inscribed in the phallic function to cope with the absence of sexual relation ]. 

In Freudian terms we can say : the phallus Φ as the male ego ideal is Verleugnung of castration. It covers and hides the ex-sistent and impossible phallus ØΦ of the dead Urvater

The phallus Φ is what is in stake in the masculin protest at the last moment of analysis of male patients, as Freud says in Die endliche und die unendliche Analyse.

In the topology of Lacan’s apophatic ontology, the formulae ("x) Φ(x) and ($x) ØΦ(x) are situated in this way :


where the figure of the left side is the cross-cap cut into a discoid surface (blue) and a Möbius surface (Möbius strip, red).





2017年7月4日

性関係は無い (il n'y a pas de rapport sexuel)

Il n'y a pas de rapport sexuel

性関係は無い

2017年06月14日の Twitter より

たまたま Facebook で Lacan の命題「性関係は無い」が話題になっているのを見かけました.それが何を言わんとしているのかを理解するのはやはり難しいことであるようなので,何度でもくりかえし説明しましょう.

「性関係は無い」が言わんとしているのは,性的な悦 (jouissance sexuelle) の不可能性です.

悦とは,欲望の満足です.

Freud は Trieb[本能]と言いましたが,Lacan は生物学的な意味合いを有するその語を避け,より人間的な désir[欲望]という語を以て Trieb の問題を考えました.

また,Freud は Libido[リビード]とも言いました.Freud 自身,それをアメーバーの偽足に譬えたり,何かエネルギーのようなものとして説明したりしています.しかし,libido はラテン語で「欲望」です.libido の問題も Lacan は「欲望」を以て思考します.


「性関係は無い」は,決して満たされることのない欲望にかかわる命題です.

決して満たされ得ない欲望.そのことを今の日本で最も雄弁に物語っているものをひとつ挙げるとすれば,それは竹宮恵子氏の『風と木の詩』の Gilbert でしょう.

『風と木の詩』は,ひとつの「欲望の悲劇」です.

Gilbert と Serge の関係が男どうしであるから「性関係は無い」のではありません.Serge の愛が Gilbert に対して無力であるから「性関係は無い」のでもありません.

『風と木の詩』において問われているのは,欲望満足の不可能性と,欲望の昇華としての愛の可能性です.

Serge の愛が Gilbert に対して無力であったとすれば,それは,Serge が Lacan による「欲望の昇華としての愛」の定義:「愛するとは,持っていないものを与えることだ」を知らなかったからです.それを知っていれば,もう少し別の愛し方をすることができていたでしょう.

精神分析においては,「欲望」を心理学的に考えてはなりません.そうさせないために,Lacan は徹底的に非心理学的な定義を「欲望」に与えました :

le désir est la métonymie du manque-à-être (Ecrits, p.623).

欲望 Ⱥ は,存在欠如 φ のメトニュミアである:


「存在欠如」は,Heidegger と Lacan の否定存在論における「抹消された存在」


の別名です.Lacan はときおり désêtre という新造語も使っています.

「性関係は無い」は,性的な行為において欲望の完全な満足としての jouissance sexuelle[性悦]を実現するかもしれない phallus はあり得ない ‒ 不可能である ‒ ということです.たとえあなたの penis がいくら元気に勃起していても.

欲望の完全な満足としての jouissance sexuelle を実現するかもしれない phallus の不可能性を形式化する学素として,我々は,この抹消された φ を用います:


それは,不可能な phallus を形式化する学素です.

それは,抹消された存在 Sein の解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente ] の学素でもあります.両者は相互に等価です:


「性関係は無い」という命題を聞いたら,何を以てしても決して満たされることのない不吉な欲望の穴のイメージを思い浮かべてください.


René Magritte (1937), The Pleasure Principle (Portrait Of Edward James)

村上春樹氏の最新作『騎士団長殺し』のなかで,主人公の画家は,まさにそのような穴を絵に描くことになります ‒ 小説の冒頭において,顔の無い男(抹消された存在 Sein, すなわち死そのものとしての Nom-du-Père[父の名]の形象)が描くよう求めた彼の不可能な肖像画の代わりに.

口を開いたままの穴.絵に描かれたその穴は,決して口を閉じることがありません.

『騎士団長殺し』において,主人公の画家は,自身の作品にとても満足します.それは,満足不可能な欲望の穴の口を開いたまま支えることに行き着き得た昇華
S(Ⱥ) の満足です.

性関係は無い.しかし,満足不可能な欲望に,愛は昇華をもたらし得ます ‒ 神の愛は:

seul l'amour ‒ l'amour-sublimation  permet à la jouissance de condescendre au désir (Lacan, la séance du 13 mars 1963, Séminaire X L'angoisse).

愛 ‒ 欲望の昇華としての愛 ‒ のみが,悦が欲望に応じてやることを可能にする.

2017年4月6日

Lacan の墓にて

Jacques Lacan (1901 - 1981) の墓は,Paris の西北西約 50 km のところにある閑静な村 Guitrancourt墓地にあります.Paris 市内から車で 1 時間弱です.そこに所有していた別荘に,Lacan は頻繁に滞在しました.






わたしは,自身の分析の継続のために 2017年3月に一ヶ月間 Paris に滞在していた際,ふと思い立って,3月25日,Lacan の墓を訪れました.

墓地の入口から敷地の奥へ,なだらかな斜面を登って行きます.その一番高いところより少し手前の中央部分にふたつの墓が並んでいます.入口の方へ向かって左側が Lacan の墓です.その右側の墓は,Lacan の妻 Sylvia (1908-1993) のものかと思いきや,そうではなく,彼女の母親 Nathalie Maklès (1877-1960) の墓です.ちなみに,Sylvia の墓は,Paris 市内の Montparnasse 墓地にあるそうです.

今回の Paris 滞在中に急に Lacan の墓を訪れる気になったのは,わたし自身の分析の経過と無関係ではありません.ほかならぬ Lacan の夢を見たからです.Lacan と分析している夢です.

わたしは,日本にいて,自身が分析の経験にないときは,ほとんど夢をみませんが,Paris で分析の経験にあるときは,意義深い夢を見ることがあります.

今回見た或る夢のなかで,わたしは Lacan に分析を受けています.わたしの現在の分析家 Gérard Haddad との分析の際に寝椅子に横たわるのと同様に,夢のなかで,わたしは寝椅子かベッドに仰向けに横たわっています.

ちなみに,Lacan が用いていた寝椅子は,この Lacan の面接室の写真に見えるように,まったく背もたれが無く,ベッドのようです.




夢のなかで,わたしの頭の背後には,Lacan が座っています.実際の分析の際に Gérard Haddad がそうしているように.そして,夢のなかで,わたしは眠り込みます.Lacan は怒って,わたしを揺り動かして,目覚めさせます.分析の最中にわたしが眠り込んだので Lacan は怒ったのですが,わたしの頭のなかには「おいおい,これは夢で,今は睡眠中なのだから,眠り込んだって当然だろう」というような考えが浮かびます.しかし,同時に,若干の不安も感じます.そんな夢です.

この夢でかかわっているのは,明らかに filiation の問題です.親子関係にかかわる問いです.わたしの父は誰なのか?わたしは誰の息子なのか?それは,分析家に関して言えば,「この分析家は誰に教育分析を受けたのか?」という問いです.

わたしが Gérard Haddad を分析家に選んだのも,彼の著作『ラカンがわたしを養子にした日』のゆえです.その本の最後に語られる夢  Haddad Lacan の死後に見た或る夢 ‒ のなかで,Lacan Haddad にこう言います:「きみは,わたしの養子だ」.

日本語で「養子」と言うと「実子」との違いが注目されてしまいますが,フランス語では「養子」は « fils adoptif » です.たとえ養子ではあれ,とにかく fils[息子]です.

それに対して,Jacques-Alain Miller Lacan の gendre[娘婿,義理の息子]です.

Haddad が夢のなかで Lacan が「きみはわたしの息子だ」と言うのを聞いたのは,Jacques-Alain Miller との対立と葛藤の状況のなかででした.

fils adoptif[養子]対 gendre[義理の息子].どちらが正当な相続人ないし後継者なのか?

確かに Jacques-Alain Miller Lacan により遺産相続人と Séminaire 共著者に指定されましたが,しかし,彼は,Lacan の娘 Judith の夫として,つまり Lacan の家族の一員として,Lacan に分析を受けることはできませんでした.

誰が Lacan の教えの正当な相続人か?これは,わたしにとっても重要な問いでした.

夢のなかで,わたしは,Lacan に分析を受けて,彼の弟子(息子)のひとりとなることはできましたが,しかし,分析の最中に眠り込んで,Lacan の怒りを買い,不安を感じます.明らかに,夢のなかで,Lacan は,わたしにとって超自我を表しています.Lacan の怒りは,超自我の怒りです.

そのような怒りから自身を解放する必要があります.わたしが Lacan の墓を訪れる気になったのはそのような動機からだ,とその後の分析の経過のなかで明らかになります.

無神論の本当の公式は「神は死んだ」ではなく「神には意識が無い」である,と Lacan は言っています.神には意識が無い,つまり,神は何も知らない.

Lacan の墓のかたわらで,わたしはその公式を思い出しました.Lacan は今や,何も知らない.Lacan の教えの相続人や後継者が誰であろうと,彼の教えを誰がどうしようと,今や,Lacan は何も知らない.そんなことは,死せる Lacan にとって,どうでもよいことだ.Lacan の墓のかたわらで,わたしはそう感じました.今回の Lacan の墓参りの収穫です.

Lacan の墓のことを話したので,Freud の墓のこともちょっと話そうと思い,適当な写真を Internet で探そうとしたところ,2014年 月の或る新聞記事が目にとまりました.今まで全然気づいていなかったニュースです.


Freud の遺体は火葬に付され,その遺灰は,彼の妻の遺灰とともに,彼の収集品のひとつだった大きな古代ギリシャの壺に入れられ,London 北郊外の Goldersgreen の火葬場の敷地内に幾つかある納骨堂の建物のひとつのなかに収められています.わたしは,1985-1986年の Tavistock Clinic 留学を切り上げて,Paris に転居する直前,Freud の墓と Freud Museum を見学してきました.当時,彼の屋敷はまだ Museum として一般に公開されていませんでしたが,特別に見学を許可してもらいました.

Freud の遺灰を収めた壺は,上の写真のように,高さ 1.5 m くらいの柱の上に置かれており,その近くの壁に作りつけられた棚には,Anna Freud を含む Freud の子どもたちの遺灰を収めた金属製の箱が幾つか置かれています.

2014年 15日付の新聞記事によると,2013年大晦日の晩に盗賊が納骨堂に忍び込み,Freud の骨壺を盗み出そうとしたが,誤って落下させてしまい,壺は大破してしまったそうです.古代ギリシャの壺を骨董品として売り飛ばそうとしたのでしょう.床に撒き散らされた遺灰は,2014年元旦,火葬場の職員により回収されました.その後,Freud と彼の妻の遺灰がどのような容器に収められたのかに関しては,Internet では特に記事が見当たらず,不明です.ともあれ,以前のように簡単に誰でも Freud の墓(というか,骨壺)参りをすることができる,というようにはもはやなっていないでしょう.

骨壺を壊されて,Freud は怒っているでしょうか?そう想像する人もいるかもしれません.しかし,実際には,死せる Freud は何も知りません.死せる Lacan が何も知らないのと同様に.

ところが,死者の知に戦々恐々としている人々は少なくありません.特に,家父長主義者たちは.

家父長主義者たちにとって超自我を成すのは,祖霊,つまり「御先祖様」たちです.死せる先祖たちは,今生きている子孫たちのことを監視しており,子孫たちが何を為しているか,何を怠っているかについてすべて知っており,意向に背く子孫たちを処罰する.そのように思い込んでいる家父長主義者たちは,祖霊という超自我にがんじがらめにされています.

家父長主義者たちは,祖霊という厳しい超自我に服従する限りにおいてのみ,家督ないし遺産の正当な相続人として,存在することが許されます.祖霊を崇拝し,祖霊の意志に服従することは,家父長主義者たちにとって,自身の存在の可能性の条件です.日本,中国,韓国のいずれでも,事は同様です.

キリスト教でも,神はすべてを知っており,罪を犯した者らに罰をくだすではないか?と反論する人がいるかもしれません.しかし,それは,神の愛を識らない人々が抱く否定的な思い込みにすぎません.

神は,すべてを知り得るかもしれませんが,しかし,神は忘却してもくれます.「死んでも忘れない」というような怨みごとは言いません.

旧約聖書でも新約聖書でも,神は人間の罪を赦してくださることが強調されています.そして,いったん赦した罪のことを,神は忘却してしまいます.いったん赦された罪のことは,神の記憶から消し去られてしまいます.閻魔帳の記録のようにいつまでも消えないということはありません.

それは,神の愛のおかげです.人間が自身の罪を悔い,赦しを求めるなら,神は,慈しみ深く,罪を赦し,その罪のことを記憶にとどめてはおきません.

それに対して,神を識らない日本人,中国人,韓国人たちは,先祖が犯した罪,先祖が被った不正義を,決して忘れず,恐怖と怨念に囚われ続けます.日本人と中国人と韓国人の一種の道徳的サドマゾヒズムが,今も国際問題の解決を困難にしているだけでなく,日中韓の三つの国におけるキリスト教と精神分析に対する共通の抵抗となっているかもしれません.

神は忘れてくれますが,祖霊は決して忘れない.無慈悲なものです.

2017年3月3日

Séminaire XVII『精神分析の裏』第 X - XIII 章の解説

Lacan 1969-1970年の Séminaire XVII『精神分析の裏』の第 X - XIII 章をまとめて,Jacques-Alain Miller  L'envers de la vie contemporaine[現代生活の裏]と題しています.この表題は,Balzac の最後の小説 L'Envers de l'histoire contemporaine[現代史の裏]の表題に基づいています.というより,それに言及する際に « L'Envers de l'histoire contemporaine » と言う代わりに « L'Envers de la vie contemporaine » と言った Lacan の思い違いを Jacques-Alain Miller はそのまま利用したのです.

現代生活の裏,現代社会の裏... しかし,だからといって Lacan は社会学的なことを語るわけではまったくなく,而して,否定存在論的構造について,四つの言説を用いて説明を続けます.






否定存在論的構造について,Lacan はさまざまな道具立てを用いて思考します.おもだったものは,投射平面のトポロジーとボロメオ結びです.

上のように図式化することによって,我々は次のふたつのことに改めて気づかされます:ひとつは,「真理」の概念の変化;もうひとつは,学素 S(Ⱥ) の根本的な重要性です.

四つの言説の公式化以前,Lacan は vérité を次のように位置づけていました:



この図において,V は vérité, Sc は science であり,両者の間の切れ目を成すのは objet a です.1965-66年の Séminaire XIII L'objet de la psychanalyse で提示された図です.その年度の初回講義は,Écrits の最後の書である La science et la vérité[科学と真理]です.そこにおいて Lacan は,科学と主体との相関について問いつつ,主体の分裂を「知と真理との間の分裂」(Écrits, p.856) と公式化しています.

それを Saussure 的な学素 signifiant / signifié にならって形式化するなら:


この構造は,四つの言説においては「大学の言説」として形式化されることになります:


主体の分裂を「知と真理との間の分裂」と公式化する場合,その「真理」は,主体の 存在 $ としての実在 [ le réel ] のことです.

それに対して,四つの言説においては,真理の座は左下の座です.それは,穴としての徴在 [ le symbolique ] の位に相当します.

かくして,四つの言説の公式化において Lacan は真理の概念を変更した,と確認されます.従来,真理は,解脱実存としての実在のことでした.それに対して,四つの言説においては,真理は,穴としての徴在として定義されます.

次に,学素 S(Ⱥ) について.

S(Ⱥ) は,或る意味で精神分析の alpha かつ omega です – なぜなら,以下に見るように,それは,徴示素が徴示素として機能するための可能性の条件であり,かつ,Lacan が1965年6月16日の講義の終わりで « le terme de l'analyse est ce que j'ai inscrit dans le symbole S(Ⱥ) »[精神分析の終結は,わたしが記号 S(Ⱥ) において記入したところのものである]と言っているように,其こに精神分析の終わりが存するところのものでもあるからです.

1960年のテクスト『Freud 的無意識における主体のくつがえしと欲望の Dialektik』において,S(Ⱥ) は « signifiant d'un manque dans l'Autre [ en tant que trésor du signifiant ] »[徴示素の宝庫としての他のなかの欠如の徴示素](Écrits, p.818) と定義されます.そして,徴示素の宝庫としての他の場処における欠如が如何なるものであるかを示す公式が,これです : « il n'y a pas d'Autre de l'Autre »[他の他は無い](ibid.).

「他の他は無い」とは如何なることか?それは « Sans-Foi de la vérité » (ibid.) である,と Lacan は続けて言っています.つまり,無意識において語る何かは実在としての真理そのものであるとしても,その真理の言うことが真であると保証するものは何も無い,ということです.

かくして,« nul langage ne saurait dire le vrai sur le vrai »[如何なる言語も,真について真を言うことはできない](Écrits, p.867). そこのとを Lacan は « il n'y a pas de métalangage »[メタ言語は無い]とも公式化します.

「他の他は無い」について,投射平面のトポロジーにおいて見てみましょう.徴示素の宝庫 [ le trésor du signifiant ] としての他の場処 [ le lieu de l'Autre ] は,穴あき球面です.それに対する「他の他」は,穴あき球面に対して ek-sistent な Möbius strip の曲面です.より正確には,「他の他」の座は,Möbius strip の曲面によって表される localité ex-sistente de l'être, ek-sistente Ortschaft des Seins, 存在 の解脱実存的在処です.

さらにより正確に言うと,「他の他は無い」は,単純に「他の他」がひとつの存在事象として存在することを否定しているのではなく,而して,次のふたつのことを公式化しています : 1)「他の他」の座は 存在 の解脱実存的な在処である ; 2) その解脱実存的在処は本来的には空座(空所,空処)である.

ところで,Séminaire XVII の第 VI - IX 章において見たように,Möbius strip の曲面によって表される 存在 の解脱実存的在処は,源初的に去勢された死せる父の座であり,かつ,「性関係は無い」の根拠を成す不可能な phallus φ の座です.

かくして,「他の他は無い」と「性関係は無い」とは相互に等価であることが,改めて確認されます:

« il n'y a pas d'Autre de l'Autre » ≡ « il n'y a pas de rapport sexuel »

無き「他の他」を形式化するとすれば,その学素は Ⱥ であるのが自然でしょう.しかし,我々としては,学素 $ にならって,学素 Ⱥ を「他の欲望」の学素として用いたいと思います.それによって,幻想 ( $a ) の可能性の条件であるより根本的な構造を明確にこう公式化することができます:


この学素 Ⱥ ◊ φ こそが,性関係を可能にするかもしれない phallus の根本的な不可能性のゆえに他の欲望 Ⱥ の満足も根本的に不可能であることを,より正確に形式化しています.

さらに,この学素は,穴 Ⱥ と解脱実存 φ とは明確に区別さるべきであることを,改めて気づかせてくれます.前者は徴在の位,後者は実在の位です.

では,Ⱥ と φ とを分離しつつ結合している ◊ は何なのか?上の図において明らかなように,それは,投射平面のトポロジーにおいては穴のエッジであり,かつ Möbius strip のエッジでもあるものとしての S(Ⱥ), ボロメオ結びにおいては R, S, I の三つの輪をボロメオ的に結ぶ第四の輪としての S(Ⱥ) です.

S(Ⱥ) にそのように consistance[定存]を認めて良いのか?そのことを改めて検討してみましょう.そのために,S(Ⱥ) が « signifiant d'un manque dans l'Autre »[他のなかの欠如の徴示素](Écrits, p.818) と定義された『主体のくつがえし』のテクストに戻りましょう.

その定義に続いて,Lacan はこう述べています :
nous partirons de ce que le sigle S(Ⱥ) articule, d'être d'abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n'y en a pas d'autre) est : un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant. Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n'est représenté que pour. Or la batterie des signifiants, en tant qu'elle est, étant par là même complète, ce signifiant ne peut être qu'un trait qui se trace de son cercle sans pouvoir y être compté.  
我々は,この記号 S(Ⱥ) が述べていること – それは,まず,ひとつの徴示素である,ということ – から出発しよう.我々の「徴示素」の定義は,こうである(徴示素のほかの定義は無い): ひとつの徴示素,それは,主体を代表するものである – もうひとつのほかの徴示素に対して.この徴示素 S(Ⱥ) は,したがって,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である:すなわち,もし仮にこの徴示素 S(Ⱥ) が無いならば,ほかの徴示素すべては何も代表しないことになるであろう.というのも,主体が代表されるのは ... に対してでしかないからである.ところで,徴示素の集合は,それが存在する限りにおいて,そのことそのものによって完全であるのであれば,この徴示素 S(Ⱥ) は,徴示素の集合の円によって描かれる線でしかあり得ず,徴示素の集合のなかに数え入れられることはできない.
この一節において « batterie »[複数の要素のひとそろい,ひと組み]を「集合」と訳すのは,確かに,翻訳としては正確ではありません.しかし,Lacan は明らかに「集合」の概念を念頭に置いています.彼が「円」と言うとき,それは,初歩的な集合論において用いられる Venn diagram においてひとつの集合を表す円のことです.

ともあれ,以上からこう結論することができます : S(Ⱥ) は,徴示素の宝庫としての他の場処に属してはいないひとつの特別な徴示素である.その意味において,S(Ⱥ) はひとつの「他の他」であり,そのものとして consistant[定存的]である.

S(Ⱥ) がひとつの「他の他」であることは,「他の他は無い」と矛盾してはいません.そも,後者の言うところの無き「他の他」は,書かれないことをやめない不可能な phallus φ のことです. それは,実在の位 – Möbius strip の曲面 – に相当します.それに対して,S(Ⱥ) は,穴と Möbius strip とのエッジに相当します.ボロメオ結びにおいては,実在,影在,徴在の三つの輪をボロメオ的に結び合わせる第四の輪を成します.

四つの言説における右上の座 – Lacan が曖昧さ無しにでなく la place de l'autre[他者の座]と定義する座 – は,実は,そのようなものとしての S(Ⱥ) に相当している.我々はようやく,そのことを明確に把握することができます.

徴在の穴のエッジを成す S(Ⱥ) こそは,1953年に Lacan が « le support de la fonction symbolique »[徴在の機能の支え](Écrits, p.278) と規定する Nom-du-Père[父の名]にほかなりません.それがボロメオ結びの第四の輪を成すことを,実際,Lacan は1975-1976年の Séminaire XXIII Le sinthome において明確に提示しています.

しかし,そのような父の名は,Lacan が「詐欺師」と批判する「立法者」でしょうか?

「立法者」について Lacan はこう言っています : « C'est en imposteur que se présente pour y suppléer le Législateur (celui qui prétend ériger la Loi) »[他の他は無いことに対して代補するために立法者(我れこそは法を立てる者なりと主張する者)が現れるのは,詐欺師としてである](Écrits, p.813).

「他の他は無い」は「性関係は無い」と等価です.性的に悦することができないのは,実は,性関係を実現し得る phallus が不可能であり,それによって性関係の悦は不可能であるからです.

それに対して,詐欺師的な立法者は「悦するなかれ」と命令します.悦することは禁止されている,なぜなら我れが悦の禁止の律法を立てたから.オィディプス複合における父こそが,そのような詐欺師的立法者です.そのように禁止命令を発する父は,支配者の座,つまり,四つの言説における左上の座 – la place de l'agent, 能動者の座,代表者の座 – に位置します.

それに対して,S(Ⱥ) としての父の名は,右上の座そのものを成します.その座は,支配者に対して他者である者の座,すなわち,奴隷の座です.それは,「他の他は無い」に対する代補ではなく,「他の他は無い」ことを支えるものであり,それによって実在,影在,徴在の三位から成る否定存在論的構造を可能にするものです.Lacan が詐欺師と批判する立法者ではありません.


精神分析の終結は S(Ⱥ) に存する  つまり,精神分析の終わりは,絶対的な支配者に成ることに存するのではなく,而して,奴隷として 存在 により自有され,かくして,存在 の解脱実存的な在処を支えることに存します.

そのとき,他の欲望 Ⱥ は,S(Ⱥ) において,昇華を得ます.分析の終結における昇華は,何らかの悦の実現ではなく,而して,悦の不可能性を支えることに存します.

Lacan は,1963年03月13日の講義でこう述べています : « seul l'amour-sublimation permet à la jouissance de condescendre
au désir »[愛-昇華のみが,悦が欲望に応じてやることを可能にする].

精神分析の終結としての欲望の昇華 S(Ⱥ) において,悦はその不可能性において欲望に応ずることになります.そのような昇華こそが,「持っていないものを与える」こととしての愛です.それが,本当の意味での神の愛との出会いです.そして,S(Ⱥ) として自有において生きる者のみが,本当に隣人愛を実践することができます.

2017年2月9日

Des status divers du petit a

Pourquoi Lacan a-t-il inventé les quatre discours ? Il y aurait certainement plusieurs raisons, mais une en est sûrement ceci : pour expliquer des différents statuts du petit a.

Partons de cette définition triadique de la structure topologique du parlêtre que Lacan nous présente dans la Position de l’inconscient (Écrits, p.839) :

« elles [ c’est-à-dire fermeture et ouverture ] donnent à deux domaines leur mode de conjonction. Ce sont respectivement le sujet et l’Autre, ces domaines n’étant ici à substantifier que de nos thèses sur l’inconscient. Le sujet, le sujet cartésien, est le présupposé de l’inconscient. L’Autre est la dimension exigée de ce que la parole s’affirme en vérité. L’inconscient est entre eux leur coupure en acte ».


Et voyons les correspondances entre la topologie apophatico-ontologique, la triade d’RSI et la structure des quatre discours :


le lieu de l’Autre ‒ la sphère trouée (le disc) ‒ la consistance de l’imaginaire ‒ la place de l’agent ;

la localité du sujet ‒ la bande de Möbius ‒ l’ex-sistence du réel ‒ la place de la forclusion et de la production ;

les bords de la coupure et de l'identification ‒ le trou du symbolique ‒ la place de l’autre et celle de la vérité.


Dans le discours du maître, le petit a dans la place de la production est le plus-de-jouir refoulé dans la place du phallus φ impossible et foncièrement forclos. Là, le petit a est de l’ordre du réel.



Dans le discours de l’hystérique et le discours de l’université qui est le discours de l’obsessionnel, le petit a est le trou ou la coupure de l’ordre du symbolique même.



D'ailleurs, dans son Séminaire XIII L’objet de la psychanalyse, Lacan nous présente un schéma de l'aliénation comme ceci :



Là, l’objet a est la coupure entre le savoir et la vérité. Cette structure qui est celle de la Science, n’est rien d’autre que le discours de l’université.



Enfin, dans le discours de l’analyste, le petit a se présente comme semblant qui représente le savoir S
2 supposé dans la place de la vérité. Là, le petit a est de la consistance de l’ordre de l’imaginaire.



Mais, comme j'ai déjà dit dans mon petit article Du a en superposition du réel, de l'imaginaire et du symbolique, on peut penser aussi que le petit a a un état de superposition des trois ordres du réel, de l'imaginaire et du symbolique.