2016年12月9日

2016年12月02日,東京ラカン塾精神分析セミネール「言説の構造」 第 5 回 「ラカン場」

Le séminaire XVII L'envers de la psychanalyse, le chapitre V : Le champ lacanien


セミネール XVII 『精神分析の裏』,第 V 章 「ラカン場」



Le champ lacanien [ラカン場]とは奇妙な表現ですが,この場合,champ は,「電磁場」や「重力場」のような物理学的意味における field, 場です.

Freud が libido の経済論を措定したのにならって,Lacan は,悦のエネルギー論が構築されることを空想します.そこにおいてかかわるのは,物理学において電磁場や重力場がかかわるように,悦場 [ le champ de la jouissance ] であるだろう.電磁気学に Maxwell の名が冠されているように,悦場に個人名を冠するなら,le champ lacanien [ラカン場]と呼んでほしい,と Lacan は冗談を言っています.

勿論,悦はエネルギーのように定量化可能ではありませんから,物理学的意味における場を悦に関して措定することはできません.しかし,topologie ontologique [存在論的トポロジー]のために用いられた cross-cap は,la surface de la jouissance [悦の曲面,悦曲面]と呼ばれてもよいかもしれません.もし Lacan が望むなら,我々はそれを la surface lacanienne [ラカン曲面]と呼びましょう.





さて,Lacan の教えの最も根本的な命題のひとつは,これです: 無意識は他の言説である [ l'inconscient est le discours de l'Autre ]. ただし,今や我々は,A を抹消して,こう書くべきです : l'inconscient est le discours de l'Ⱥutre. 

上の図で,Autre は consistance [定存]としての穴開き球面であるのに対して,Ⱥutre は ex-sistence [解脱実存]としての Möbius strip です.

Lacan は « dans l'inconscient, ça parle »[無意識において何かが語る] (Ecrits, p.437) とも言いますが,無意識において語る「何か」とは,否定存在論においてかかわる主体の存在,すなわち,存在欠如としての主体の存在です.

ただし,主体の存在は,主体自身に対して他 Ⱥutre である: それが,存在の真理の実践的現象学としての精神分析においてかかわる主体の分裂であり,精神分析的現象学が Dialektik として展開される所以です.

「無意識は他 Ⱥ の言説である」は,Heidegger の用語で言うなら,「無意識は,存在のことばである」[ das Unbewusste ist das Wort des Seyns ] です.Heidegger が旧正書法にしたがって Seyn と書くとき,それは,存在欠如としての存在のことです.

では,他 Ⱥ は,何を語るのか? 主体の存在の真理を語ります.つまり,存在は存在自身のことを語ります.

ただし,真理を真理として語るのではなく,真理を仮象によって語ります.そして,真理をすべて言うのではなく,真理の部分のみを言います.

かくして,無意識は他 Ⱥ の言説であり,そして,その言説は,存在欠如としての主体の存在についての言説です.

以上の構造について,Lacan は,1970年2月11日のセミネールにおいてこう言っています:「言説の主体は,自身が言説する主体であることを知らない.(...) 言説の主体は,言説を言っているのは誰なのかを知らない.(...) 知がひとりでに語る ‒ それが無意識である」 (Séminaire XVII, la version du Seuil, p.80). 


分析家の言説において,左下の座,存在の真理の座において,知 S2 はひとりでに語ります.その言葉を,左上の座,代理者の座に位置する a が,無意識の造形 [ formations de l'inconscient ] として,主体 $ に対して代表します.しかし,主体 $ には,誰が語っているのか,何を言っているのかは不明です.

また,同じ日に,Lacan はこうも言っています:「言説は,悦についての言説しか無い」 (p.90).


この図では,四つの言説の左下の座(真理の座)は,他 Ⱥ の欲望の座であり,右下の座(生産の座)は,源初的に閉出された不可能な phallus φ の座であることが,分析家の言説の構造において明示されています.


他の欲望 Ⱥ が phallus を悦することが不可能であること: それが,「性関係は無い」ということです.この学素は,「性関係は無い」の学素であり,性関係の悦の不可能性の学素です.

上に引用した Lacan の命題に言葉を補うなら: 言説は,不可能な悦 ‒ 不可能な性関係の悦 ‒ についての言説しか無い.

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