2016年12月2日

セミネール17巻 『精神分析の裏』 第 4 章 「真理 – 悦の姉妹」 (2)

Le Séminaire XVII L'envers de la psychanalyse, le chapitre IV Vérité, soeur de la jouissance (2)


localité ex-sistente [解脱実存的な在処]としての真理に関連して,Lacan はこの第 IV 章で幾つかのことを述べています.



真理という語は,女に,特別な戦慄を惹起する (p.62)


「女は,精神分析の革命的な効能によって活気づけられる」と Lacan は述べています.

精神分析は革命的な効能を有しています – 支配者を廃位 [ destitution ] する効能を.



分析家の言説の構造は,精神分析において成起する転移神経症の構造でもあります.転移神経症においては,それまで排斥されていた剰余悦 a が左上の代理者(支配者)の座へ現れ出てきます.それは,転移神経症における症状の徴示素です.精神分析的解釈は,それを分離し,廃位します.

支配者の座における剰余悦 a が廃位されるとき,言説の構造は解体され,真理の穴 S(Ⱥ) がそのものとして顕わになります.




真理の穴 S(Ⱥ) と直面する不安に耐えること : Lacan が Séminaire XX Encore で jouissance féminine [女の悦]と呼ぶものは,そのことに存します:



女の悦は言説の構造の解体において真理の穴 S(Ⱥ) と直面する不安に耐えることに存することにおいて,「女は,男よりも,言説の円環のなかに閉じ込められていない」,「真理という語は,女に,特別な戦慄を惹起する」と Lacan は言っています.

女と革命について.女の存在は,phallofasciste な現代社会において,革命の可能性の条件です.Proletariat という語を「女」という語に置き換えるなら,Marx の言説はすべて現動的となります.フェミニスト革命において女が Hegemonie を奪取することが,真の共産主義革命の第一歩となります.



メタ言語は無い – 下司根性の諸形態すべて以外には (p.68)


Il n'y a pas de métalangage que toutes les formes de la canaillerie.

「メタ言語は無い」と「他の他は無い」(Ecrits, p.813) と「真について真を言うことはできない」(ibid., p.867) とは,相互に等価な命題です.



この図においては,真理の座は Ⱥutre の座として明示されています.Ⱥutre は,欲望としての他 Ⱥ であり,「他の他は無い」[ il n'y a pas d'Autre de l'Autre ] と言われるときの「他の他」です.

真理である他 Ⱥ を代表するのは,仮象 a です.仮象は,真理ではないものです.

それに対して,「他の他は無いことを代補するために立法者が自身を提示するとすれば,それは詐欺師としてである」(Ecrits, p.813).

同じことを Lacan は,ここではこう言っています:「あらゆる下司根性は,このことに依拠している:すなわち,其こにおいて或る者 $ の欲望がとらわれているところの諸形象 a が描かれているところにおいて,その者 $ の他 Autre であろうとすること」(p.68).



真について真を言うことはできない.つまり,真理 Ⱥ は,仮象 a によってしか代理され得ません.にもかかわらず,絶対的な真理そのもの A として自身を提示する者は,詐欺師です.特に,或る者 $ の欲望の客体 a の代わりに絶対的他者 A として自身を提示する者は,その者 $ を催眠術にかけて,文字どおりに食い物にする獣であり,倫理的に最も卑しい下司です.



Das transzendentale Ich, 超越論的我 (p.70)




Kant や Husserl などの哲学に代表される形而上学において das transzendentale Ich, le Je transcendental, 超越論的我と呼ばれているものについて,Lacan は,それは大学の言説において真理の座に自身を秘匿する支配者 S1 のことだ,と指摘しています:

「超越論的我とは,何らかのしかたで知を表言した者は誰でも,其れを真理として匿っているところの者である.つまり,[大学の言説における] S1 であり,支配者の我である.それは,己れ自身と同一である我であり, 其れによって純粋命令[定言命令]の S1 が定立されるところのものである.[Kant の道徳律のような]定言命令には,まさに,[超越論的]我が隠れている.そも,命令は[汝れは ... すべし,というように]常に二人称で発せられる」(p.70). 

そのような超越論的我 S1 は,哲学者たちにとって,死せる父であり,やっかい払いしたはずの神にほかなりません.



Unglauben, 信じないこと (p.71)


Freud は,精神病者の姿勢を,Unglauben – 其こにおいて真理がかかわるところの片隅について「何も知りたくない」ということ  によって規定している,と Lacan は述べています.

Freud のテクストにおいてこの Unglauben という語が出てくるのは,1896年5月30日付の Fließ 宛書簡においてですが,その語が差し徴している事態について Freud は,1895年1月24日付書簡に添付された草稿 H と,1896年1月1日付書簡に添付された草稿 K においても論じています.

それらのテクストにおいて Freud は,Schizophrenie を含む幻覚妄想性精神病一般を,Paranoia と呼んでいます.その特徴的な症状のひとつに,いわゆる迫害妄想があります.患者は,特定の(あるいは不特定の)誰かがわたしを(何らかの意味で)非難し,問責し,責めている,と妄想的に思い込んでいます.そのような観念は,非難してくる声の幻覚に基づいていることもありますし,あるいは,そのような幻覚症状を伴わない純粋に妄想的な確信であることもあります.

Freud はそのような症状の形成のメカニズムを Projektion [投射,投影]と名づけます.すなわち,患者は,自身に向けられた非難や問責の思念(それは,実際に患者が犯した罪によるものかもしれませんし,あるいは,律法にも法律にも何ら違反していないにもかかわらず問われる原罪によるものかもしれません)を自身のうちに有しているにもかかわらず,そのような思念は患者の自我と相容れないので,患者はその真理に信を置くことを拒み (das Versagen des Glaubens, das Unglauben), その結果,自我と相容れない思念は外界へ投射され,幻覚妄想症状において外界の誰か(他者)から患者へ向けられた非難や問責となります.

Lacan がこの Unglauben に注目するのは,1932年の博士論文で取り上げた自罰パラノイアの症例 Aimée においてかかわっているのがまさにそれだからです.勿論,1932年の時点では Freud の Fließ 宛書簡はまだ公刊されていませんから,Lacan が Unglauben について知るよしもありません.

しかし,「真理について何も知りたくない」こととしての Unglauben は,精神病に限らず,神経症においても性倒錯においても,共通しています.精神分析においてかかわる症状はすべて,真理の穴 S(Ⱥ) を塞ぐものだからです.そのような穴塞ぎをせざるを得ないのは,穴が惹起する死の不安を防御するためです.

それに対して,精神分析は,死の不安の引き受けにおいて S(Ⱥの穴を開放し,それによって本当の自有 [ Ereignis ] へ至ることに存します.



Ein Kind wird geschlagen, 子どもが叩かれている (p.73)


「子どもが叩かれている」という空想を,Freud は1919年の同名の論文で取り上げました.その空想には快が連合しており,自慰行為が誘発されます.男性におけるよりも,女性においてより多く見出される空想です.

「子どもが叩かれている」をひとつの命題と取るなら,そこにおいて sujet de l'énoncé [言表の主語]と sujet de l'énonciation [表言の主体]との分裂を見ることができるかもしれません.



しかし,「子どもが叩かれている」は,単純に言語学的あるいは論理学的な命題ではありません.というのも,その意味は自慰的な剰余悦であるからです.



Freud は,「子どもが叩かれている」という空想の剰余悦は「わたしは父により叩かれている」という排斥された幻想により条件づけられている,と考えます.

わたしは父により叩かれている.言い換えると,父はわたしを叩く.そこにおいて悦しているのは,父です.この「他の悦」の幻想は,他の欲望 Ⱥ の支えです.

他の欲望 Ⱥ の支えである排斥された幻想:「父はわたしを叩く」は,排斥されたものの回帰において,変形されて,空想:「子どもが叩かれている」として,他の欲望 Ⱥ を代表するものの座へ現れ出てきます.

四つの言説において位置づけるなら:





第二の死 (p.75)



「第二の死」は,Sade の Histoire de Juliette の第二部において Saint-Fond が「死後に地獄で永遠に続く拷問」に関して展開する議論のなかから取り出されてきた概念です.

Séminaire VII の1960年 6月22日の講義において,Lacan はこう言っています : 

Freud の言う「死の本能」においてかかわっているのは,[普通の意味での生物学的な]死ではなく,而して,第二の死である.[普通の意味での]死が成就された後も,なおも目ざし得る死である – Sade のテクストのなかでそれをわたしが具体的に示したように.つまるところ,人類の伝統は,第二の苦しみ – 死の彼方の苦しみ[死後の地獄での苦しみ] – を空想することをやめなかったのと同様に,第二の死の観念を現在的なものとして保持することをやめなかった – 第二の死に,[第二の]苦しみの終わりを見ることにおいて.しかし,第二の苦しみ,死の彼方の苦しみは,第二の死という境界を踏み越えることの不可能のゆえに,際限無く維持されることになる.そして,それがゆえに,地獄の伝統は常に生き生きとしたものであり続けてきたのであり,それは Sade においてもなおも現在的である – 拷問の犠牲者へ加えられる苦しみを[死後も]永続させるという彼の観念を以て.この洗練は,彼の小説の主人公のひとり [ Saint-Fond ] によるものとされている.その人物は,彼が生から死へ送り出す者が[地獄で]刧罰を受けることになると確信するサディストである.

また,Lacan が再三指摘するように,精神分析においてかかわる父は,死せる父,息子たちにより殺された Urvater [源初の父]です.死せる父 S1 は,大学の言説の構造において,左下の座,解脱実存的な真理の在処に居座り続けており,息子たち S2 の有罪性を動機づけています:


Lacan (Séminaire XVII, p.76) が指摘するとおり,神は死んだと宣言する者は,真理の解脱実存的な在処に隠れた神を崇め奉っているのです.

要するに,通常の意味での死においては,我々はまだ仮象とかかわりあっています.死せる父は,仮象的な父の名です.

第二の死の領域は,抹消された存在,das Sein, 存在欠如の在処そのものです.

そこへ到達するためには,死の本能を引き受け,死の不安に耐え抜かねばなりません.

また,第二の死の領域が das Sein の在処である限りにおいて,「第二の死は第一の死に先立つ」と Lacan は指摘しています (Séminaire XVII, p.76).


理論家 Sade, 実践家 masochiste (p.75)


1962年の書 Kant avec Sade (Ecrits, pp.773-775) におけると同様に,Lacan は,Sade の位置を instrument de la jouissance divine [神の悦の道具]と規定します.


すなわち,他の欲望 Ⱥ を代表する剰余悦 a の位置です.

なぜそうなのか?と Lacan は問い,そして,こう答えます:「彼 [ Sade ] は真理を愛しているから」.さらに,「彼が真理を愛していることを証明するのは,彼が真理を拒むということだ – つまり,彼は,神は死んだと宣言することによって彼は神を崇め奉っているということに気づく様子が無く,先ほどわたしが話題にした小さな手段[死後の肉体の断片が第二の死によって打たれ,滅ぼされるようにと願うこと]によってしか彼は悦へ到達しないということを,神に対して証言している」 (Séminaire XVII, p.76).

すなわち,Sade は,症状の言説としての分析家の言説のなかにとどまっています.


真理の座における知を愛し続けることにおいて,Sade は理論家である.それは,男における剰余悦 a との関繋です.

それに対して,masochiste は実践家である.この場合,それは,masochiste は神とかかわったりせずに,身近にいる者を利用して満足している,ということです.

ただし,masochiste は,身近にいる者を利用して,客体 a としての己れが支配者の座から廃される事態を演出することによって,剰余悦の彼方の悦へ近づきます.

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