2016年9月12日

「ラカンを読む」とは

ラカン読解ワークショップ:ラカンへの回帰」が10月16日に行われます.

Lacan の書は,おしなべて難解です.Séminaire はさほどでもないと一般的には思念されていますが,しかし,最晩年の Séminaire では,彼は,「難解」を通りこして,「意味」のあることをほとんど話しませんでした.それは単に,大腸癌に健康を蝕まれつつあった彼の衰弱のせいだけではありません.

Lacan に限らず,偉大な哲人たちや偉大な詩人たちは何故難解なのか?彼らは故意に難解に書いたのか?

Freud も Heidegger も Lacan も,偉大な哲人たちに属しています.Heidegger が取り組んだソクラテス以前の哲人たちやドイツ観念論の哲人たちも.また,偉大な詩人の名を挙げるなら,Heidegger が好んで取り上げた Hölderlin, Lacan がときに引用する Paul Valéry, etc. 

我々にとって,彼らが残した言葉を「読む」とは如何なることか?

それは,彼らの言葉を原文で読んで,翻訳する,多かれ少なかれ正確な訳文を作る,ということではありません.

そも,翻訳は,所詮,意味に捕らわれています.翻訳者が翻訳し得るのは,彼または彼女が意味を読み取れたところだけです.

ところが,難解な著者の場合,当然ながら,意味の取れないところが少なくありません.しかし,だからと言って,出版される翻訳書のなかで,そのような部分を訳し残すことも許されません.ですから,えてして翻訳者は,意味の読み取れない言葉に代えて,「意味」のある訳文をでっちあげます:つまり,誤訳.

偉大な哲人や詩人を本当には邦訳で読むことができないのは,そのせいです.

彼らにおいて重要なのは,意味ではなく,而して,Lacan が ab-sens と呼んだもの,意味に対して解脱的なものです.そのようなものを思考し,詩うためにこそ,彼らは語り,書いたのです.

だからこそ,彼らの言葉は,意味の観点からは難解なのです.

我々にとって,偉大な哲人や詩人を「読む」とは,彼らのテクストをとおして,彼らの言葉のおかげで,ab-sens に対して我々自身を開き,それへ問いかけ,その答えに耳をすませることです.つまり,「存在の言葉」 [ das Wort des Seyns ] を聴こうとすることです.

意味に捕らわれていては,存在の言葉を聴くことが妨げられてしまいます.訳文を作ったことで安心してしまえば,存在に関して,存在そのものへ,問いかける思考を続けることができなくなってしまいます.

今回の workshop では,「問いかける」ことに特に重点を置いてみましょう.

問いかけて,どうなるのか?答えがすぐに返ってくるのか?

否.答えがすぐさま得られるわけではありません.むしろ,耐え難い沈黙しか返ってこないかもしれません.

しかし,重要なのは,問いかけに対する沈黙の答えを前にして,不安に耐えることです.

幸い,我々は,『沈黙』の主人公のようにひとりで不安に耐えねばならないわけではありません.不安を分かち合う誰かが身近にいるでしょう.

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