2016年1月26日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,2015-16年度 第11回,2016年01月29日

開闢の切れ目と λόγος


Le séminaire sur « La Lettre volée » の第一頁の第一段落を読み返してみましょう.そこで Lacan はこう言っています:

« La prise du symbolique s’exerce jusqu’au plus intime de l’organisme humain ».
[徴在による掌握は,人間という生物の最も内奥のところへ至るまで,作用を及ぼしている].

名詞 « prise » は,動詞 « prendre » [取る,つかむ,つかまえる,捕らえる,等々]に由来します.

始めに徴在があります.徴在の位は,人間存在をつかまえます.人間存在は,徴在の位が条件づける構造のなかへ捕らえられ,そこに住まいます.Heidegger の命題:「言語は,存在の家である」は,そのことを言っています.

徴在による人間存在の掌握の効果は,人間存在の最も内奥のところ [ intimité ] へ至るまで,つまり,extimité [解脱内奥]へ至るまで,すなわち,解脱実存としての Kern unseres Wesens [我れらの本有の核]へ至るまで,及びます.

徴在の位の効果は,如何なるものか?それはこのことです: 言語存在としての人間存在の本有の核は,存在欠如 [ manque-à-être ] に存する.言い換えれば,Sein, 存在


徴在の位は,人間存在に先立ち,人間存在を掌握し,支配している.そのことを Lacan はさまざまに言い換えています:

« le symbolique est constituant pour le sujet en tant que manque-à-être » (cf. Écrits, p.12) ;
[徴在は,存在欠如としての主体にとって,定立的である];

« l’efficacité symbolique » (ibid., p.36) ;
[徴在の有効性];
« la suprématie du signifiant dans le sujet » (ibid., p.20) ;
[主体における徴示素の優位];

« la préséance du signifiant par rapport au signifié » (ibid., p.29) ;
[被徴示に対する徴示素の優先];

« la prééminence du signifiant sur le sujet » (ibid., p.39) ;
[主体に対する徴示素の優越];

« la primauté du signifiant sur le signifié » (ibid., p.467).
[被徴示に対する徴示素の優位].

以上の引用において Lacan は,「徴在の位」と「徴示素」とを等価なものと見なしています.しかし,1970年代には,徴在の位は穴と定義され,それに対して,徴示素は consistance [定存]としての影在の位のものと規定されます.

一見すると,そこには矛盾があります.では,そこに何らかの paradigm shift を見るべきなのか?

その必要はありません.なぜなら,上に引用した諸命題において Lacan が「徴示素」と呼んでいるものは,「ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつのほかの徴示素に対して代表する」という命題における「主体を代表するひとつの徴示素」ではなく,而して,「其れに対して主体がひとつの徴示素により代表されるところのもうひとつの他の徴示素」のことだからです.すなわち,S(Ⱥ). そして,それは,穴としての徴在の位そのものです.

かくして,穴としての徴在の位が主体に先立ち,主体をその存在欠如において定立します.

その観点から,ヨハネ福音書の冒頭を読み返してみましょう:

Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.

新共同訳でもフランシスコ会訳でも,« ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν » は「ことばは神とともにあった」と訳されています.しかし,それでは本当の意味を把握することはできません.

πρός という前置詞は,対格を取るとき,基本的に,「... の方へ」という方向性を表します.それは,空間的でも時間的でもあり得ます.さらにそこから,何らかの目的の「ために」をも意義し得ます.ですから,« πρὸς τὸν θεόν » は「神へ向いて」または「神のために」です.

« Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος » : 源初に λόγος があった.

この λόγος は,学素 S(Ⱥ) により形式化される穴です.穴としての徴在の位そのものです.穴こそが,源初的なものです.

この穴は,言語の構造の学素においては,徴示素と被徴示との間の切れ目として形式化されます:


この切れ目こそが,徴示素と被徴示との区別の可能性の条件であり,すなわち,言語の構造の可能性の条件です.

この源初的な切れ目は,Heidegger の用語では die ontologische Differenz [存在論的差異]と呼ばれています.それは,Seiendes [存在事象」と Sein存在]との区別の可能性の条件です.

同じ切れ目を Heidegger は Lichtung [空き地,朗場]とも呼んでいます.Lichtung は,鬱蒼たる森のなかに切り開かれた空き地です.そこには光が差し込むことができますから,暗い森のなかの明き地です.

名詞 Lichtung と関連する動詞 lichten を用いれば,源初的な切れ目は der lichtende Schnitt と呼べるでしょう.フランス語では la coupure de clairière, 日本語では「開闢の切れ目」と呼びたいと思います.

« ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν » : λόγος は神へ向いてあった,または,神のためにあった.

開闢の切れ目としての λόγος は,言語の構造の学素における徴示素と被徴示との間の横線に相当しますが,上の座に何も記入しないわけにも行かないので,便宜的に Lichtung の学素として Æ をそこに書いておきましょう:


Ⱥ は,存在欠如における他の欲望の学素です.存在欠如において解脱実存する他の欲望こそ,人々が神と呼ぶところのものの正体です.また,それは,Lacan が La Femme と表記する「女」でもあります.La Femme, すなわち,不可能在としての女,現存せず,而して解脱実存する女.

源初的な穴,開闢の切れ目としての徴在の位は,存在の真理としての実在の位をそのものとして解脱実存させます.

かくして,« θεὸς ἦν ὁ λόγος » : λόγος は神であった.

解脱実存における神 Ⱥ は,源初的な穴 Æ としての λόγος とひとつになります.

さらに,« ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο » : λόγος は肉となった.

λόγος は乙女マリアの胎のなかで肉体を授かり,神のひとり子として Jesus が誕生します.consistance [定存]としての影在の位の身体を a と表記するなら:


東京ラカン塾精神分析セミネール:「文字の問い」,2015-2016年度,第11回,

日時 : 01月29日金曜日 19:30 - 21:00,

場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 3 階 B 会議室.

引き続き,Lacan の「盗まれた手紙についてのセミネール」を読解します.

事前の申込は必要ありません.参加費無料.

テクストは各自持参してください.テクストの入手困難な方は,小笠原晋也に問い合わせてください : ogswrs@gmail.com

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