2015年3月26日

ハイデガーの「反ユダヤ主義」について.精神分析 Tweeting Seminar より.

12 February 2015

Heidegger 全集の編集者のひとり,Peter Trawny Heidegger und Mythos der jüdischen Weltverschwörung [ハイデガーとユダヤ人世界陰謀神話]の冒頭を読んでみましょう:

Leo Strauss, Hannah Arendt, Karl Löwith, Hans Jonas, Emmanuel Levinas, Werner Brock, Elisabeth Blochmann, Wilhelm Szilasi, Mascha Kaléko, Paul Celan : 彼らは皆,ユダヤ人である.彼らに Martin Heidegger は様々なしかたで出会った.彼らにとって Heidegger は教師であり,賛美者であり,愛人であり,崇拝される哲人であり,支援者であった.既にしばしば断言されているように,Heidegger は,哲学者および大学教師として,1920年代に若いユダヤ人たちを惹きつけたのであり,さらには,彼の思考とユダヤ性との間にはひとつの近しさがあった.”

つまり,Heidegger はユダヤ人たちと親しかったのです.ユダヤ人たちを愛していたのです.彼ら,彼女らは,優秀な学生であり,有能な芸術家でした.

そして同時に,Heidegger はユダヤ人たちを嫌悪していました.ユダヤ人たちは計略をめぐらし,民族の特殊性にしたがって生きており,かつ,住むべき土地を持っていない(1948年のイスラエル建国より前の話です).

科学技術の手先であるユダヤ人たちは自己破壊へ行きついて当然である,という趣旨のことを Heidegger は昨年公表された手記「黒いノート」に書いているそうです.

先月下旬 Paris で,Heidegger の反ユダヤ主義を主題とする学会が開かれました.Heidegger Hitler 政権下で Nazi であったことは周知のことでしたが,彼のあからさまな反ユダヤ的言辞が明らかにされたのは初めてです.従来,Heidegger Nazi ではあったが反ユダヤ主義者ではなかったと擁護してきた人々にとっては大きなショックです.

しかし,精神分析家の目で見ると,Heidegger は典型的な強迫神経症者であっただろうと思われます.ユダヤ人たちに対する彼の態度は,典型的な両価性,Ambivalenz であると推測されます.ユダヤ人は,Heidegger にとって客体 a だったのです.

ユダヤ教徒は,古代ギリシャの前ソクラテス哲人たちと並んで,存在の史実の観点において,形而上学に先立つものです.つまり,より源初的,始源的です.言うなれば,存在の神秘の守護者です.Heidegger にとってはあこがれの的です.

しかし同時に,ユダヤ人たちは自分たちの民族性に固執し,キリスト教的な普遍性を拒否し続けています.それでいて,diaspora によって固有の土地を失い,根無し草です.本自性を欠いています.そして,科学技術の手先です.

Heidegger Machenschaft という語を用いるとき,それは単なる策謀,作略,陰謀ではなく,あらゆる存在事象が科学技術の計算にもとづき造作可能なものになったという事態を指しています.つまり,神による創造の尊厳の喪失です.

要するに,Heidegger にとってユダヤ人は,nihilisme の手先,nihilisme という破壊的事態の工作員であり,その意味において人間性の敵なのです.

果たして Heidegger は,ユダヤ人に対するあこがれと憎悪との両価性を超克することができたのかどうか?

ああ,やはり彼は Lacan と精神分析をするべきだったのです!

Heidegger は「黒いノート」を全集の最後に出版するよう遺言していました.しかし,全集編集者たちは,「黒いノート」に記された反ユダヤ的言辞の重大性に鑑み,やや早めにそれらの公表を開始しました.

Heidegger が「黒いノート」の出版を最後にすることを望んだのは,そこに書かれたことが彼の最も内奥の苦悩にかかわることであったからに違いありません.つまり,ユダヤ人に対する両価性は,彼自身に対する両価性なのです.

Flaubert の言葉 : « Madame Bovary, c'est moi » [ボバリー夫人とはわたしだ]にならって,Heidegger はこれを認めるべきでした:「ユダヤ人とはわたしだ」.

ユダヤ人とはわたしだ.果たして Heidegger は「黒いノート」に記された自己分析を通じて,そのことを認めることができたのでしょうか?これから検証して行かなくてはなりません.

そして,科学技術の手先であり,根無し草でありながら,同時に,人種や民族の違いという「小さな差異のナルシシズム」にこだわっているのは,ユダヤ人だけでなく,我々現代人すべてがそうなのです.

ユダヤ人とは,我々自身なのです.

我々は皆,自己破壊へ定められています.

Hitler がユダヤ人を強制収容所とガス室で抹殺したように,我々は,資本の言説と科学の言説によって我々自身を破壊しつつあります.フクシマは,我々の自己破壊過程のひとつの象徴です.勿論,広島・長崎の原爆もそうですし,あらゆる戦争とテロリズムがそうです.

Heidegger Freud と精神分析について否定的な評価しかしていませんでした.当時,精神分析家であった者たちは Freud を含めて大部分ユダヤ人でしたから,ユダヤ性に対して両価的であった Heidegger としては当然の反応だったと言えます.

しかし,もし仮に Heidegger が第二次大戦が始まる前に精神分析を経験する機会があったなら,彼は Nazi にならずにすんでいたかもしれません.あくまで想像ですが.


18 March 2015

今,たまたま,ユダヤ人に関する本を二冊,並行して読んでいます.ひとつは Heidegger に関するもの,もうひとつは Lacan に関するものです.

Peter Trawny 著,Heidegger und der Mythos der jüdischen Weltverschwörung [ハイデガーとユダヤ人の世界陰謀の神話];

Gérard Haddad 著,Le péché originel de la psychanalyse : Lacan et la question juive [精神分析の原罪:ラカンとユダヤ問題].

「精神分析の原罪」という表現は Lacan Séminaire XI の最初の講義で用いているものです.原書では p.16 にあります.

Lacan はこう言っています : ヒステリーは我々をひとつの「精神分析の原罪」の痕跡へ導く.(...)真なる「精神分析の原罪」は多分ただひとつしかない.それは Freud 自身の欲望である.つまり,Freud のなかで決して分析されなかったものがあるということ.

同じところで Lacan は,父の名によって問うているのは起源,源初の問題であり,Freud の欲望はそこへの入口を見出した,と言っています.しかし,Freud はそこへまともに立ち入ることを避けたままで終わってしまいました.

源初は,勿論,抹消されたものとしての存在 : Sein, つまり,Lacan の表現では「性関係は無い」 : φ です.




確かに Freud は最晩年に『モーゼと一神教』を書きました.しかし,それも『トーテムとタブー』における父殺しの神話を越えるものではありませんでした.つまり,死んだ父はあいかわらず徴示素として存在の真理の座にいすわっているのです.

Freud のなかで決して分析されなかったものがある,ということは,Freud は,死んだ父,自分が殺した父の喪を完遂しなかった,ということです.

この場合,父は,単に生みの父や育ての父ではありません.そうではなく,天地の創造主である父なる神 YHWH です.

Freud は,父の亡霊につきまとわれたまま,父の亡霊の仮象に魅せられたまま,不可能な名としての YHWH の座そのもの,抹消された存在の真理の場処そのものに関して問うことをしないままに終わってしまいました.

では Heidegger はどうだったか?Peter Trawny の本を半分ほど読んだ現時点での印象は,Heidegger YHWH の亡霊につきまとわれていたようです.その亡霊は,Heidegger にはユダヤ人の姿を取って現れてきました.

ですから,Heidegger antisémitisme[反ユダヤ主義]と言うよりは,Heidegger judéophobie[ユダヤ恐怖症]と言う方が良いかもしれません.

Weltjudentum [世界中にはびこったユダヤ人たち,世界ユダヤ組織]と Heidegger 自身が名づけたもの,世界中いたるところにいながら,捉えどころのないユダヤ人たち.まさに亡霊です.その亡霊に Heidegger は怯えていたように思われます.

Heidegger の父親は,Meßkirch という小さな町で,樽造りの職人でした.そして,その町のカトリック教会の典礼世話係を務めていました.敬虔なカトリック信者である両親と Heidegger との関繋が如何なるものであったのか,彼の伝記はほとんど何も語っていません.

Heidegger は,当初,神父になるために神学部に入りましたが,まもなく哲学に専攻を変えました.また,プロテスタント神学に関心を寄せました.プロテスタントの女性と結婚しました.敬虔なカトリックの父との間に何か葛藤があったであろうことがうかがわれます.

Freud Heidegger Lacan と.彼ら三人のボロメオ結びは,東京ラカン塾の象徴です.その結び目を成すのは,確かに,父の名です.


19 March 2015

Heidegger の『黒ノート』の最初を成す全集第94巻の冒頭に,Heidegger はこう記しています:黒ノートの原稿は,核において,単純な「名指すこと」[ einfaches Nennen ] の試みである.

Nennen, 名指すこと,名づけること.それは,そのものとしては書かれぬことをやめぬもの,つまり,不可能としての実在,すなわち,抹消された存在の真理を,言語の構造


のなかに宿すことです.

Heidegger がそこで Nennen と呼んでいるのは,彼が Denken[思考すること]または Sagen[言うこと]と呼ぶところのものと同じです.そしてそれは,まさに精神分析において起こることにほかなりません.

Heidegger の『黒ノート』は,Freud Fließ 書簡と同様,しかるべき精神分析家と出会うことができない状況におけるいわゆる自己分析の試みである,と言うことができます.

そのような自己分析の試みの欠点は,ラカン的な意味における解釈の欠如です.真理を指し示す切れめをつける精神分析家の行為が伴っていないのです.ですから,通常は,行き詰まりに陥らざるをいません.

Heidegger の『黒ノート』自体もまだパラパラめくってみただけなので,断言はできませんが,やはり,旧約聖書の出エジプト記 3,14 Mose に啓かされる YHWH の名:「我れは存在する」に関する考察は見当たりません.

ユダヤ人を問題にしながら何故 YHWH を取り上げないのか?

der letzte Gott [最後の神]について思考しながら何故源初の神に注目しないのか?

西洋の伝統は,古代ギリシャだけでなく,キリスト教が由来するところのユダヤ教にも源を持っているのに,何故 Heidegger は,紀元前6-7世紀の前ソクラテス哲人たちを取り上げながらも,彼らよりもっと古い時期に成立していたはずの旧約聖書のテクストを読解しようとしないのか?

以上のような問いは,Peter Trawny にも欠けているようです.Weltjudentum [世界ユダヤ組織]という幽霊にだけ気を取られているようです.亡霊が跋扈するとき,必要なのは,いまだしかるべく為されていない喪を完遂することであるにもかかわらず.

我々が YHWH の名:「我れは存在する」の決定的な重要性を知っているのは,Lacan がそのことを教えてくれたからです.父の名という用語を精神分析の中心的な用語としただけでなく,直接に出エジプト記 3,14 Lacan は取り上げています.

Heidegger は,1941-42年に書いた Das Ereignis(全集第71巻)において,抹消された存在の表記を初めて用いています.Sein ではなく Seyn と書いて,さらにそれをバツ印で抹消しています:



はたして,Heidegger にとって,存在の語を抹消して書くことが YHWH の名の喪を果たすことへとつながって行くのか?まだ検討を続けなければなりません.


20 March 2015

Heidegger の「反ユダヤ主義」に対する批判は,彼が「人種」(ドイツ語では Rasse, 英仏では race)にこだわったことに注目します.

人種に関連する語彙は,血,土地,民族,etc. です.こうして見れば,日本人はいまだに十分人種差別的です.

本当の父の名の座が仮象によって占められてしまい,隠されてしまっているとき,その代理にしゃしゃり出てくるのが,人種,血,土地,民族などの仮象です.それらは,父の名の仮象です.

血を受け継いでいること,土地に根ざしていること,Volkskörper に属していること(Volkskörper は「国体」と訳せます):それらが,父の名の代理物です.

しかし,それらの父の名の代理物について語るとき Heidegger の語彙から不思議と抜け落ちているものがあります.それは langue です.ドイツ語,フランス語,日本語などと言うときの各国の言語,国語です.国語は民族を規定する重要な因子のひとつであるにもかかわらず.

第二次世界大戦後,1946年,Heidegger は,« die Sprache ist das Haus des Seins » [言語は,存在の家である]と公式化します.にもかかわらず,「黒ノート」には「言語こそ存在の宿りである」という観点が抜け落ちているように見えます.

人種,血,土地,民族などへのこだわりは,ニヒリズムへの反動です.信頼できるものが存在事象のなかに何も見いだせなくなったとき,人々はそのような仮象へ頼ろうとします.今,日本でもそうなっています.そして,ニヒリズムとは,存在の喪失です.

失われた存在を言語の構造のなかに守護すること,それは,存在の真理の現象学的構造を Bien-dire[善言]として遂行することです.




とすると,Heidegger が「反ユダヤ主義」ないし「ユダヤ恐怖症」を克服しえたか否かは,存在,Sein, Seyn を抹消することと,その抹消された存在の宿りとしての言語に注目することとの関数ではなかろうかと思われます.

実際,1950年代の Heidegger の言語に関する論考を収録した本があります : Unterwegs zur Sprache[言語への途上].これは当然,lacanien にとって必読の書です.

ちょっと話を変えて,ユダヤ・キリスト教と仏教との対比をしてみましょう.父なる神 YHWH は,結構,無気味です.いけにえを求めたり,ときに怒ってイスラエルの民を殺したりします.「主を恐れることは智慧の始まり」と言われるように,YHWH は不安を惹起します.

それに対して,仏は,崇高ではあっても,無気味ではありません.仏教にも地獄や畜生道の神話はありますが,そのような災難に陥ることは,今,現世において人間として生きている仏教徒にとっては回避可能です.

少なくとも,日本的な仏教においては,すべては浄化され,きれいごとにされているように見えます.そこでは,YHWH の名の深淵を前にしての不安は埋め隠されてしまっているように思われます.現在の日本の「純粋状態におけるスノビズム」はそこに由来しているのかもしれません.


21 March 2015

この数日間 Heidegger の「黒ノート」に関して述べていることは,Peter Trawny の『ハイデガーとユダヤ世界陰謀神話』を読みながら立てている予備的仮説です.まだ「黒ノート」そのものを読み込んだわけではありません.

「最初の源初」と「ほかなる源初」.古代ギリシャ語とドイツ語.両言語には不思議と共通点があります.豊かな新造語の可能性;動詞に副詞を結合して新たな動詞を作り得ること;動詞の不定詞と分詞を文の要素として活用し得ること,etc.

古代ギリシャは哲学の発祥の地であり,ドイツは近現代の偉大な哲学者たちを輩出しています.

フランスの哲学者としては,Descartes はいるものの,彼の後は,これといった哲学者が出てくるのは,1940年代になって,つまり,ドイツ哲学から刺激を受けたことによってです.Bergson は,ドイツの哲学者たちには到底比肩し得ません.

このことは,中世にラテン語が神学と哲学の標準語であったことと関連するかもしれません.もともとラテン語は,ギリシャ語に比べれば言語的な豊かさに関して見劣りしますが,標準化されることによりますます硬直化しました.フランス語はラテン語から派生した言語です.

ドイツ語と英語は,ゲルマン系の言語であり,ラテン語から派生したものではありません.西欧の歴史において長らくラテン系言語の諸国が中心的であったのに対して,ドイツ語圏と英語圏は辺縁的でした.

しかし,英語圏とドイツ語圏の辺縁性が,主流であった硬直化したラテン語の外において,Shakespeare から Joyce に至る英語文学の繁栄と,Kant から Heidegger に至るドイツ哲学の豊饒を可能にしたのかもしれません.

さらに,存在の真理の現象学の可能性の条件は,ユダヤ・キリスト教です.勿論,ユダヤ・キリスト教は,形而上学とともに,ニヒリズムを生み出すことにもなるのですが.

Heidegger は,Platon ἰδέα が存在の真理の穴を決定的に塞いでしまい,それによって誕生した形而上学は,ついにニヒリズムに至る,と跡づけます.

しかし,むしろ,YHWH の名が紀元前2世紀ころまでに呼称不可能な名になったことこそ,存在の離退,存在の自己秘匿そのものではないでしょうか?神学に明るい Heidegger にとって,そのことが思考不可能であったはずはありません.

YHWH は一旦,神の名,父の名を秘匿します.しかしそれは,ひとり子イェスを世に使わすことによって,より明瞭に己れを啓かすためでした.しかも,十字架上の死という穴として.

仏教とキリスト教との決定的な違いは,まさにこれです:十字架上で処刑されたイェス,罪・悪・死そのものとなった神が,存在の真理そのものの穴として己れを啓示したということ.この無気味さ,このむごたらしさが,仏教には欠けています.

十字架上で無残にうなだれるイェスが与える恐ろしさと哀れみを,ブッダの微笑は覆い隠してしまいます.

ともあれ,形而上学と並んで,中世のラテン語の神学とカトリック教会は,イェスが啓示した存在の真理の穴を塞いでしまいます.Nietzsche Platon とキリスト教をくつがえそうとしたのは当然だったわけです.


22 March 2015

Heidegger は如何にして「言語は存在の家である」と1946年に公式化するに至ることができたのか? おそらく Hölderlin の作品について思考することが大きな意義を有していたのではないかと思われます.

詩人 Friedrich Hölderlin (1770-1843) Schizophrener となります.1805年には明白に幻覚妄想状態にありました.1802-1803年に書かれた作品『平和の祝い』の Hölderlin 自身による短い前書きで彼はこう述べています:

「美しく晴れた日には,いかにも,ほとんどあらゆる類の歌が聞こえてくる.そして,それらの歌がそこに由来するところの自然は,それらを再び取り去りもする.」

つまり,1802-1803年の時点で automatisme mental の症状,いわゆる幻聴症状は既に始まっていたと推定されます.

1801年に書かれた『帰郷』の終わり近くで,Hölderlin はこう歌っています:

「我れらが食べものを祝福するとき,誰の名を我れは唱えてよいのか
また,我れらが昼間の生から休らうとき,言いたまえ,如何に我れは感謝しようか?
そのとき我れは,高き方の名を唱えるか? 一(いち)なる神は至当ならざるものを好まない.
彼を捉えるためには,我れらの喜びはほとんど小さすぎる.
我れらはしばしば沈黙せねばならない;聖なる名が欠けている.
心は脈打つが,語りは取り残されるのか?
しかし,ひとつの弦楽があらゆる時に音を与える.
そしておそらく,近づきつつある天の者らを喜ばせる.」

以上に引用した部分で,「ひとつの弦楽があらゆる時に音を与える」が幻覚症状を証言しているのかははっきりしませんが,「近づきつつある天の者ら」の切迫感は,幻覚妄想症状勃発直前の段階に特有の不安と緊張を表しています.

特に注目されるのは,es fehlen heilige Namen [聖なる名が欠けている]です.「名」は単数ではなく,複数で用いられていますが,それらの名ないし名詞,名称は,「高き方の名を唱える」(den Hohen nennen) ためのものです.

詩人は,夕食の前に神に感謝するために神を名ざそうとします.その神は,一なる神 YHWH です.しかし神は,十全適合的でない名,つまり,単なる仮象にすぎないような名を好みません.神に対して非仮象的な聖なる名は欠けています.そこに,父の名の閉出の穴がそのものとして顕現します.詩人はその穴の前で沈黙せざるを得ません.

Heidegger 1943年,詩人の没後100年を記念して行われた講演のなかで,この「聖なる名が欠けている」を取り上げています:「聖なるところに住まう方自身が誰であるかを言うこと,そして,それを言いつつ,その方自身を出現させること,そのためには,名ざす言葉が欠けている.」

そして Heidegger は,「聖なる名が欠けている」を,Hölderlin の『詩人の使命』の末尾に見出される表現 : Gottes Fehl と関連づけています.

この Fehl は多様に解釈可能ですが,そこでは Heidegger は「神の不在」という意味に取っています.

「神の不在」は,しかし,欠如ではない,と Heidegger は言います.神は遠くにとどまりつつも,神を見出すときは近づいている.天の者らの接近において神は挨拶を送っている.神の不在は,むしろ,まさに到来しようとしている神の切迫である.

Heidegger YHWH の名には全く言及していませんが,精神病者である Hölderlin を介して「父の名の閉出」を思考するに至ったのかもしれません.


23 March 2015

Peter Trawny seinsgeschichtlicher Antisemitismus[存在史実的反ユダヤ主義]と名づけた Heidegger のユダヤ恐怖症は,どうやら,運命的に定められたドイツ民族の没落へ展開するようです.

Heidegger における Geschichte Historie を区別します.普通は両者とも「歴史」ですが,初期を除いて,Heidegger のテクストにおいては後者は「歴史学」と「歴史学において作成される諸々の物語」です.つまり,影象的・徴象的なものです.

それに対して Geschichte は,Lacan の表現で言えば rencontre du réel[実在との出会い]です.

Geschichte は,ひとつには Geschehen[成起,出来」と,もうひとつには Geschick[運命]と,語源的に関連しています.

Lacan Séminaire XI において rencontre du réel と定義する Aristotels τύχη は,通常,「運命」と翻訳されます.

τύχη と同語源の動詞 τυγχάνειν は「起こる,成起する,出来する」です.

Geschichte において成起するもの,それは存在の真理です:



 Lacan Séminaire XI において évanouissant[瞬時に消え去る]と形容する成起,瞬間的に開いては閉じる穴の構造,それが Heidegger の言う Geschichte です.

Geschichte においては,自己秘匿としての存在の真理が,非秘匿性としての存在の真理,Lichtung として出現します:



 つまり,Es gibt Sein[何かが存在を与える」,それが Geschichte です.

Historie[史学]と識別するために Geschichte を「史実」と訳しておきましょう.

Peter Trawny が「存在史実的反ユダヤ主義」と呼ぶ Heidegger のユダヤ恐怖症における恐怖対象は Weltjudentum[世界ユダヤ組織]です.それは個々のユダヤ人とは全く別のものです.

世界ユダヤ組織は,いたるところにあり,かつ,目には見えません.つまり,裂けめとしての客体 a そのものです.

Heidegger が精神分析の経験を試みていれば,彼のユダヤ恐怖症は比較的容易に治療可能だったはずです.しかし,彼にとって「ユダヤもの」のひとつである精神分析を経験することは問題外でした.

そして,不潔恐怖症の患者が強迫的に手を洗い,汚れを清めようとするように,Heidegger は「世界ユダヤ組織」としてのユダヤ民族を粛清する Nazi Endlösung[最終解決]による「人種浄化」に賛同したのです.

そして,第二次世界大戦後,浄化の観念は,ドイツ民族の運命的没落の観念へと加工されて行くことになるようです.つまり,旧約聖書に語られているユダヤ民族の悲劇と,科学と資本の言説の支配下におけるドイツ民族の滅亡とは,ひとつのことになります.

そして,没落と滅亡の果てに,復活が成起するでしょう.

精神分析において各人が実際に経験する滅びと復活,そして,そこにおいて発起する Ereignis[自有]は,精神分析を閉出した Heidegger においては,ドイツ民族の運命的悲劇として現実化した,と言えるかもしれません.


24 March 2015

いったい,ユダヤ人の神 YHWH が日本人にどんな関わりがあるのか,と皆さんはいぶかしむかもしれません.何千年か前に Mesopotamia のどこかで Abraham に語りかけた神が,何故,今,我々にとって問わねばならないものなのか?

このことを忘れてはなりません:真理の成起は局所的かつ瞬間的である.なぜなら,真理は,自己秘匿であり,己れを啓匿するときも,裂口,裂けめ,穴として局所的に出現し,またすぐに消え去ってしまうものだからです.

真理の成起は局所的かつ瞬間的であるとしても,しかし,真理は,存在の真理として,あらゆる存在事象の存在の本有を成します.

したがって,神が最初に己れを啓示したのがひとりのユダヤ人に対してであったとしても,その局所性と瞬間性は神の根本性を否定するものではありません.

あなたがあなた自身の存在の真理に関して問うとき,父なる神 YHWH は常に関わってきます.たとえあなたがユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないとしても.

さて,Peter Trawny は,Heidegger の反ユダヤ主義を seinsgeschichtlicher Manichäismus [存在史実的マニ教]に関連づけています.

「存在史実的マニ教」は Trawny が作った表現です.この場合,「マニ教」は「善悪二元論」です.如何なる善悪か?

血と地によって確実に存在に根ざしていることが「善」です.それに対して,存在論的「根無し」は「悪」です.

血と地により確かな根を有しているドイツ民族は「善」であり,故郷を失ったさまよえるユダヤ民族は「悪」であると Heidegger は考えていた,と Trawny は述べています.

しかし,Heidegger はそのような二元論を超克したはずです.おそらく Hölderlin のおかげで.

Hölderlin の没後100周年を記念して1943年に書かれた論文において Heidegger Hölderlin の次のような一節を引用しています:

nemlich zu Hauß ist der Geist
Nicht im Anfang, nicht an der Quell. Ihn zehret die Heimath.
Kolonie liebt, und tapfer Vergessen der Geist.
Unsere Blumen erfreun und die Schatten unserer Wälder
Den Verschmachteten. Fast wär der Beseeler verbrandt.
そも,霊気が自家に在るのは
源初,起源においてではない.故郷は霊気を消耗させる.
霊気は愛する,植民地と,勇ましい忘却を.
我れらの花と,我れらの森の木陰は,
消耗した者を喜ばす.霊気づける者は,ほとんど燃え尽きていたようだ.

この一節は『パンとワイン』の草稿に見出されるもので,決定稿にはありません.しかし,Heidegger は,この一節における故郷と植民地との対置に注目します.

普通は人は故郷を愛し,植民地での暮らしに倦むはずなのに,Hölderlin はまったく逆のことを言っています.

霊気 [ Geist, 精神 ] は,故郷では死んでいた.そして,植民地で命を取り戻す.

ここで,旧約聖書の Abraham のことを思い起こしてみましょう.YHWH Abraham に命じます,故郷を捨て,YHWH が約束する地へ移れ,と.なぜ故郷を捨てねばならないのか? なぜ YHWH Abraham に故郷を捨てるよう命ずるのか?それは,血と地,そして,血と地により規定される民族や人種,それらの仮象をすべて捨てさせるためです.そのような仮象を棄却しなければ,約束の地へ入り,永遠の命に与ることはできないのです.


25 March 2015

日常性において我々は aliénation, Entfremdung, 異状の様態にあります.そこから脱して,最も本来的な自己,das Selbst へ帰ることが要請されています.

自己に関連するドイツ語形容詞は eigen です.eigen は「己れの」です.eigentlich は「本来的な,本自的な」です.いずれも Heidegger のテクストでは key word です.eigen と語源的に関連していない ereignen にまで Heidegger eigen を読み込みます.

1930年代,Heidegger は,ユダヤ民族は本自的なものを失っており,ドイツ民族は保持している;そして,ユダヤ民族はドイツ民族の本自性を破壊しようと企んでいる,と思い込んでいました.

その企みは Machenschaft と名づけられました.

いかにも,Machenschaft は「計略,作略」です.しかし,それは,単なる策謀や陰謀ではなく,而して,存在忘却において,人間を含むあらゆる存在事象が,科学技術により計量され,計算されて,資本主義的生産の作りものになり,市場経済の商品へとおとしめられてある,という事態です.

にもかかわらず,1930年代の Heidegger の思考においては,Machenschaft には「世界ユダヤ組織の陰謀」という意味が込められているようです.

Machenschaft には,血と地に基づく民族性や人種性が本来的なものである,という思念がつきまとっています.

それに対して,第二次世界大戦後に使われるようになった用語 Gestell は,Machenschaft と同じく,科学と資本の言説における存在事象の仮象化を指しながらも,むしろ,Gestell は来たるべき Ereignis の準備段階である,と規定されます.つまり,Machenschaft は抗うべきなにものかにすぎなかったのに対して,Gestell には言うなれば終末論的意義が与えられているのです.Gestell という終末論的危機を経なければ,本自的な Ereignis は発起し得ない,と Heidegger は考えるに至ります.

昨日紹介した Hölderlin の一節の含意はこうです:通常は最も本来的なものと思念される源初,起源,故郷は,失われたものであり,もはや死の領域でしかない;むしろ,他処において,植民地において,無から創造しなおしてこそ,本自性における現場存在が達成され得る.

Hölderlin Schizophrener でした.つまり,Lacan が「父の名の閉出」に初めて気づいた精神病の構造の主体です.

閉出されたものとしての父の名こそ,実在的なものとしての父の名です.それは,空座としての存在の真理の座そのものです.

Freud は無意識を発見したと言われますが,より正確に言うと,Freud は「父の名」を再発見したのです.それは,彼がユダヤ人であったからこそ可能であったことです.なぜなら,父の名とは YHWH の名にほかならないからです.

「わたしは精神分析は暗いから嫌いです.わたしは力動的精神療法をやっています」と宣伝している精神科医がいるそうです.その人は精神医学や心理学に「力動的」という概念を初めて導入したのは Freud であるという基本的歴史事実を知らないよいうです.

歴史性の欠如:それは Kojève による snobism の定義です.

今や,家族内力動がどうの,父の機能,母の機能がどうの,という言説は,まったく banal な心理学的語彙に属するものとなっています.しかし,精神医学や心理学にそのような考えを初めて導入したのは,Freud であり,彼の Ödipuskomplex の概念です.

今や,lacaniens 以外,誰もそのことを覚えてはいません.すべては技法,お作法の次元のものに形式化され,本来的な歴史的意義を失っています.純粋状態におけるスノビズムです.

父の機能は,「家族内でパパも子育てに参加しなさい」というような心理学的・社会学的処方箋に還元されるようなものではありません.

父の機能は,父の名の機能です.そして,父の名とは,呼称不可能な名としての YHWH の名:「我れは存在する」です.その際,「存在」は抹消されて書かれます:「我れは存在する」.

Lacan Schreber を介して到達した「父の名」に,Heidegger Hölderlin を介して気づくことができたのではないか?この作業仮説を Heidegger の「黒ノート」の1942年以降の部分を調べることによって検証して行かねばなりません.


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