2014年10月9日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 04 October 2014

04 October 2014 : 「読む」は「意味を了解する」ではなく「真理を解釈する」である;転移において存在の言葉を読む;ことばの機能は主体の存在の真理を解脱実存させることである;父の名と point de capiton ; 父の名はそもそも閉出されている.

Mission ouvrière Saints Pierre et Paul 聖ペトロ・パウロ労働者宣教会 (MOPP) の黙想会のお知らせをしました.しかし,今さら聖書を読むことに何の意義があるのか?

聖書を読んでも,景気が良くなるわけではないし,世の中が平和になるわけでもないし,そもそも聖書はわけがわからないし,全然おもしろくもない.D'accord ! いかにもそうでしょう,もし聖書のテクストの文面を了解しようとするなら.しかし,「読む」とは「了解する」ではありません.

「読む」は「了解する」ではなく「解釈する」です.何を?テクストの真理を.

皆さんは,聖書などより,ほかにもっと読むべきものはたくさんある,と言うでしょう.仕事にかかわる書類,勉強にかかわる教科書,時事にかかわる解説書,等々.たしかに,日常生活を大過なく送るためには,そのようなものを読む必要があるかもしれません.しかし,それらは本当に読むに値するものか?言い換えると,それらのテクストは真理を言わんとしているか?たいていの場合,答えは否でしょう.日常生活において読むべきものの多くは,技術的な内容のものです.さもなくば,誰かの政治的オピニオンに関するもの,要するに,真理のかけらも含まれていない単なるたわごとです.

Heidegger は,多くの先達のテクストの解釈をしています.古くは pré-socratique, ソクラテス以前の哲人たち,Sophokles, Platon, Aristoteles, 近くは Kant, Hegel, Schelling, Nietzsche. それから,詩人 Hölderlin の名も欠かせません.

Heidegger がそれらの哲人たち,詩人たちのテクストを解釈したのは,単に哲学教授の仕事のためではありません.

Heidegger の解釈のしかたは,独創的でした.反常識的,反通念的でした.しかし,はっとさせるものでした.つまり,真理のきらめきを感じさせるものでした.

もしまだ Heidegger を直接読んだことがなければ,まず彼の『形而上学入門』 Einführung in die Metaphysik を読むのも悪くないですが,むしろ,彼の Nietzsche 講義を読んでみてください.故木田元氏も推薦していました.講義にもとづいていますから,彼の論文よりは読みやすいです.Lacan Séminaire よりも読めます.勿論,ドイツ語原文で読むにこしたことはありませんが,最初の Heidegger なら邦訳でも良いでしょう.少なくとも『存在と時間』よりおもしろいです.

ともあれ,Heidegger は先達たちのテクストを如何に読んだか?存在の言葉 das Wort des Seins として読んだのです.

それらのテクストをとおして存在が語っている.Lacan の表現で言えば,ça parle, 何かが語っている.そして,その「何か」とは真理です.存在の真理です.

Heidegger は,いにしえの哲人や詩人を解釈しながら,過去の事象を過去のものとして扱う哲学史や文学史をしていたわけでは全然ありません.そうではなく,存在の言葉を聴き取ろうとしたのです.しかも,己れ自身の存在にかかわるものとしての存在の真理の言葉を.

精神分析用語で言えば,Heidegger の読みは,転移のもとにおける読みです.彼が或る哲人,或る詩人を読むとき,彼はそれら哲人,詩人たちに対する転移の関係にあります.であるからこそ,凡庸な教科書的読みではなかったのです.

たとえば Heidegger Herakleitos の断片的テクストを読むとき,Heidegger は,Herakleitos において,Herakleitos をとおして,存在の真理が語っている,と仮定します.それによって,知の仮定的主体が定立されます.

Heidegger の読みは,精神分析における解釈と同じ構造において為されています.精神分析的解釈と言っても,Lacan 的な解釈ですが.つまり,imaginaire な意味を了解するのではなく,存在の真理 φ を解釈することです.

我々が聖書を読む際にも同様にすべきです.聖書を単に宗教的,教義的,歴史的,文学的,等々のしかたで読むのではなく,神の言葉として,つまり,存在の言葉として読むべきです.しかも,他人事ではなく,我々自身の存在の真理の言葉として.

聖書に限らず,読むに値するテクストを読むときには,そこにおいて我々自身の存在の真理が語っている,との仮定のもとに,つまり,転移のもとに,読むべきです.そうでなければ,テクストの本当の真理を読み取ることはできません.

そこにおいて存在の真理が語っていないようなテクストは,技術的なものか,単なるたわごとです.そのようなテクストと,たとえば Heidegger Nietzsche 講義と,どちらがおもしろいかは,言うまでもありません.

さて,父の名にもどると,父の名の概念の最も基本的な定義は「徴象の機能の支え」 « support de la fonction symbolique » です.1953年のローマ講演におけるこの fonction symbolique という表現は,fonction de la parole の言い換えです.fonction de la parole はローマ講演のタイトルの含まれている表現です.

fonction de la parole, ことばの機能とは何か?それは,主体の存在の真理を ex-sister, ek-sistieren させることです.つまり,存在論的構造である言語の構造 a / φ を定立することが,ことばの機能です.

父の名は徴象の機能の支えであるとすれば,父の名は構造 a / φ の可能性の条件である,と言えます.

そのような父の名は,signifiant signifié とを相互につなぎとめておく point de capiton と同じです.

point de capiton とは,マットレスやクッションのなかの詰め物がずれて,かたよってしまわないように,表面の布地と詰め物とをつなぎとめておく縫い目です.表面の布地は signifiant, 中の詰め物は signifié に相当します.

精神病の発症においては,第一段階として,構造 a / φ の解体が起こります.つまり,それまでまがりなりにも相互につなぎとめられていた signifiant signifié とが互いに解離します.

1958年の Lacan は,そのような構造解体が起こるからには,構造を成り立たせるべき父の名が不在なのだ,と考えます.そして,その不在を「父の名の閉出」と名づけます.

ところが,1963年の時点で Lacan は,父の名は閉出された父の名しか無い,と既に気づいています.

父の名は,YHWH の名と同じく,不可能な signifiant であり,抹消されてしか書かれ得ない不可能な文字である.そのことを展開しようとしたのが,196311月に一回だけ行われた Séminaire, Les Noms du Père です.

1972年のテクスト Etourdit においては,父の名は réel なもの,つまり,不可能なもの,書かれぬことをやめないものとして言及されています.

しかし,1973-74年の Séminaire, Les non-dupes errent において,新たな展開が為されます.


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