2014年9月26日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン,25 September 2014



25 September 2014 : 東京ラカン塾のセミネール; 精神分析の知; 八つの幸福; 霊気貧しき者らは幸い.

2週間後の金曜日,1010日から,東京ラカン塾のセミネールを始めます.第一年めの主題は,精神分析の基礎です.Heidegger が「存在のトポロジー」と呼んだものについて思考することになるでしょう.

年内は,1010日から1212日まで,計10回を予定しています.次いで,116日から36日までの8回.4月は10, 17, 24日の3回.最後に,515日から626日までの7回.全部で28回となります.Lacan séminaire も最も多いときでそれくらいです.

場所は,文京区民センター2階の 2C 会議室です.ただし,1114日だけは,文京区の都合により文京区民センターが使えないので,すぐそばの文京シビックセンター(文京区役所のビル)5階の D 会議室です.

時間は 19:30 - 21:00.

公開セミネールですので,事前の登録等は必要ありません.参加費も無料です.

精神分析の知は,秘教的ではなく,顕教的です.ésotérique ではなく,exotérique です.

Lacan mathématisation の努力,mathème 化の努力が,そのことを示しています.

精神分析の知は,誰もがアクセスし得るものです.

Lacan Séminaire は,数百人が入れる大きな講堂で行われていました.誰でも無料で聴講できました.Paris 8大学精神分析学部の諸講義も,誰もが無料で聴講できます.

Ecole de la Cause freudienne Association mondiale de psychanalyse の学会は,大きな会場を借りる都合上,参加費の支払いが必要になってきますが,その成果は後で出版されます.

東京ラカン塾が Ecole freudienne de Paris Ecole de la Cause freudienne のように大規模なグループになることをわたしは意図的には目ざしません.しかし,日本においても精神分析を公共的なものにしたいと思います.

精神分析は,評論家が書きちらかす「... の精神分析」というような本の表題にとどまっていてはなりません.そのようなしろもののなかに書かれていることは,精神分析でもなんでもありません.

精神分析はひとつの実践です.その実践においては,あなた自身の存在がかかわっています.あなた自身の生がかかわっています.あなたが非本自的な日常性のなかに堕したまま暮らしつづけるか,それとも,本来的な存在可能性へ目覚めるか,その選択がかかわっています.

さて,幸福について御質問をいただいていました.二階堂奥歯氏,殉教者にして聖女,聖奥歯のことを考えていて,その問いに取り組むのが遅くなってしまいました.

幸福とは何か?ここで幸福の科学をするつもりはありません.イェスの言葉を読みましょう.マタイ福音書 5,3-10. 邦訳聖書では「山上の説教」と題されていますが,「八つの幸福」とも呼ばれます:

Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
霊気貧しき者らは幸い.天の国は彼らのもの.
μακάριοι οἱ πενθοῦντες, ὅτι αὐτοὶ παρακληθήσονται.
喪に悲しむ者らは幸い.彼らは慰められる.
μακάριοι οἱ πραεῖς, ὅτι αὐτοὶ κληρονομήσουσιν τὴν γῆν.
優しい者らは幸い.彼らは地を受け継ぐ.
μακάριοι οἱ πεινῶντες καὶ διψῶντες τὴν δικαιοσύνην, ὅτι αὐτοὶ χορτασθήσονται.
正義に飢え渇く者らは幸い.彼らは満たされる.
μακάριοι οἱ ἐλεήμονες, ὅτι αὐτοὶ ἐλεηθήσονται.
憐れみ深い者らは幸い.彼らは憐れみを受ける.
μακάριοι οἱ καθαροὶ τῇ καρδίᾳ, ὅτι αὐτοὶ τὸν θεὸν ὄψονται.
心清き者らは幸い.彼らは神を見る.
μακάριοι οἱ εἰρηνοποιοί, ὅτι αὐτοὶ υἱοὶ θεοῦ κληθήσονται.
平和の業を為す者らは幸い.彼らは神の子と呼ばれる.
μακάριοι οἱ δεδιωγμένοι ἕνεκεν δικαιοσύνης, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
正義のゆえに迫害される者らは幸い.天の国は彼らのもの.

ひとことで言うなら,幸福は神の律法への従順に存します.Antigone Empedokles が従った神の律法.聖奥歯も従った神の律法.

ただし,彼ら,彼女らは結果的に自殺しましたが,神の律法に従順であることの本質は自殺に存するわけではありません.そうではなく,殉教者が迫害の拷問に耐えたように,苦痛と悲痛に辛抱することが本有的です.

八つの幸福の第一のものは通常,「心の貧しい人々は幸いである」と訳されます.カトリックの邦訳聖書,フランチェスコ会聖書研究所版では,「自分の貧しさを知る人は幸いである」と訳されています.フランチェスコ会訳は工夫された訳ですが,しかし,この訳にはあまり賛成できません.なぜなら,キリスト教の key word のひとつが訳し落とされているからです.

「貧しい者」は原語では「乞食」です.経済的に貧乏だが,なんとか暮らしてゆくことができるような貧しさではありません.乞食の貧しさとは,生存可能性を絶対的に他者に頼らねばならないような貧しさです.他者は,この場合,勿論,神です.

「心」と訳される語は,原語では πνεῦμα です.「心清き者ら」における「心」は「心臓」も差し徴し得る語ですが,第一の祝福における「心」は,その語ではなく,「霊気」です.霊気は,神の息吹であり,神から人間に与えられる命です.

皆さんにもなじみのある inspiration という語に含まれている spiritus が,ラテン語で πνεῦμα に相当する語です.inspiration とは,本来的には,神から息吹き,霊気を吹き込まれることです.それによって,いわゆる霊感を得ることができます.

自分は神無しでも霊気に富んでいる,とおごり高ぶる者は,存在事象の次元において錯覚しているだけです.真の幸福は,命の原理である霊気に関して,自分には欠如しか無い,と気づくことに存します.つまり,仮象としての a の分離において,S(Ⱥ) の穴へ至ることです.

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