2014年7月28日

支配者徴示素 S1 としての父の名について; 存在の真理としての父の名について.



「父の名」について続けましょう.

前オィディプス期における前性器的部分本能の部分客体における満足を妨げるために介入するものとしての父の機能は,支配者の言説における支配者徴示素 signifiant maître S1 により形式化されます.それまで部分客体 a が占めていた能動者の座に「父の名」である S1 が支配者として即位します.

そして,S1 と如何なる関繋を持つかにより,男女の性別が決定されます.

男は,Freud が「トーテムとタブー」で提示した Urvater 原父の神話のとおり,父 S1 を支配者・能動者の座から退位させ,左下の真理の座,秘匿性としての真理の座,死である ex-sistence の座へ追いやります.そして,男たちは,ひとつの「すべて」,全体性 universitas としての S2 として,みづから支配者・能動者の座につきます.それが大学の言説と Lacan が呼ぶ構造です.

大学の言説における S2 は,男の性別の公式における「すべての x について Φ(x) である」に対応します.

では,存在の真理の座に置かれた「父の名」は?この父の名は,ユダヤ教の神 YHWH にまさに対応します.男の性別の公式における「Φ(x) ではない x ex-sister する」が,存在の真理の座に置かれた S1 に対応します.

しかし,存在の真理の座に置かれる父の名を,Lacan は,実在 le réel, ex-sistence, 抹消された存在そのものとも考えます.その場合,存在の真理そのものと見なされる「父の名」は,S1 という項により表されるのではなく,真理の座そのものであると言えます.

話がややもつれてしまいました.

ユダヤ教の神も,キリスト教の父なる神も,イスラム教の Allah も,実は同じひとつの神です.なぜなら,キリスト教もイスラム教もユダヤ教を母胎として誕生したものであり,三つの宗教はいずれも Abraham を信仰上の先祖としています.

神は,ユダヤ教において YHWH と表記される神ただひとりです.

ヒンズー教や日本神話の神々のことはひとまずおいておきましょう.

興味深いことに,ユダヤ教では紀元前二世紀ころまでには,神の名 YHWH をそのものとして口に出して呼ぶことが不可能になってしまいました.神を畏れるあまり,その名を直接呼ぶことがはばかられるようになり,ついには,YHWH と表記される神の名をどう読むのかもわからなくなってしまったのです.(ヘブライ語やアラブ語などのセム系の言語では,おもに子音で語を表記します.それをどう発音するかは,日本語において漢字をどう読むかが慣習的に決められているのと同様,多かれ少なかれ恣意的です).

しかし,YHWH という語が「存在」という語に関連していたらしいことは推測されています.旧約聖書「出エジプト記」で,YHWH はモーゼに「我れは『我れは存在する』である」と啓示します.

したがって,YHWH の名がもはや表言不可能になったということ,もはや不可能な名となっているということは,「存在という語は抹消されてしか書かれない」と Heidegger が言っていることと重なり合うのです.

このことは,むしろ分析家の言説において考える方が良いかもしれません.分析家の言説においては,父の名 S1 は右下の生産の座へ閉出されています.

ところで,Lacan によれば,閉出されたものは実在へ回帰します.

この命題も多義的に解釈されます.

ひとつには,「a は実在の位のものである」という Lacan の命題にしたがって,閉出された父の名は症状 a として能動者の座へ回帰する,と考えることができます.

しかし,他方,閉出された父の名は,ex-sistence として存在の真理の座へ回帰する,と考えることもできます.

話がこみいってしまいました.また明日,整理してみましょう.

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