2014年7月22日

(-φ) と φ barré の相違; 男が分析に入るためには; マグダラのマリア



今日,722日は,マグダラの聖マリアの祝い日です.聖霊の作用によりイェスを懐胎したのは,実はマグダラのマリアだ,と言ったら,どう思いますか?



 

その前に,回答しそびれていた質問に簡単に答えましょう.Lacan 自身が用いていた学素 (-φ) φ barré との相違は何かという御質問ですが,Lacan (-φ) を「去勢の imaginaire な関数」と定義しています.この場合の「関数」は「相関するもの」です.それに対して,φ barré は,ex-sistence としての実在です.ex-sistence を一貫して形式化する学素が Lacan のなかに無いので,φ barré を作ったのです.

「救済」や「倫理」という用語は日本においては誤解や拒絶反応を招くのではないか,という御指摘をいただきました.確かにそのとおりです.しかし,ほかの用語で言い換えるわけにも行きません.むしろ,日常性のなかにまどろんでいる世人 das Man としての我々にとって違和感を生ぜしめる言葉は,眠りを妨げる効果を持つかもしれません.

真理は,驚き,不安,無気味さ,不快を与えます.真理は,本当らしさよりは,むしろ,信じがたさとして現れます.ですから,第一印象において誤解や拒絶反応を招くとすれば,それは真理を語る言葉に対する当然の反応だとも言えます.

「天の御国は近づいた.回心せよ」という声を聞くと,多くの人は一種のいごこち悪さを感ずるでしょう.誤解や拒絶反応も招くでしょう.しかし,真理を語る言葉とは,そのようなものです.

大学の言説と分析家の言説との関繋について Lacan Radiophonie の末尾でこう言っています:大学の言説は,分析家の言説への「前進」により解明される.(「前進」 progrès という語には括弧が付されています.)

この命題をどう解釈すべきでしょうか?まずは,大学の言説において真理の座に置かれていた支配者 S1 が,分析家の言説では生産の座へ閉出されます.S1 は,或る意味で「父の名」です.「父の名」の概念は S1 に尽きるわけではありませんが.

男が精神分析可能となるためには,まず「父の名」の閉出が必要です.男の性別を規定する signifiant Φ を捨てさせねばなりません.さもないと,Freud が克服不可能な抵抗として行き当たった「男性的抗議」が最後に障碍物となります.

「男性的抗議」は,signifiant Φ の閉出,すなわち去勢が惹起する不安に対する防御です.その防御をまず解除しなくてはなりません.そのためにも,分析家の言説への導入の際の予備面接の間に,十分に症状を出現させる必要があります.

「分析への導入が困難なケースはいろいろありますが,最も困難なもののひとつは,「わたしは,全く正常で,症状も何も無いのですが,分析家になりたいので,教育分析をお願いします」と言ってやってくる比較的若い男性精神科医でしょう.自分が全く正常だと思い込んでいる人間ほど狂った者はいません.このようなケースは,まさに大学の言説にひたりきっており,場合によって,かなりの揺さぶりをかけないと,夢すら語ろうとしません.Lacan だったらけとばすくらいのことはしたかもしれません.

さて,救済や解脱の文脈で既に聖人にも言及しましたから,マグダラの聖マリアのことを考えてみましょう.これから述べることはわたし個人の見解であって,カトリック教会のなかにはわたしに同意する人は一人もいないと思います.

きっかけは,福音の物語の中には何故こんなにたくさんマリアがいるのかという疑問でした.福音の物語において最も重要な役割を担わされているマリアは,聖母マリアとマグダラのマリアです.ふたりともマリアなのは偶然でしょうか?

そしてもうひとつ,聖パウロが書いたもののなかには,聖母マリアもマグダラのマリアも言及されていません.何故でしょう?

新約聖書として集められた文書のうち,最も古いのは聖パウロの幾つかの書簡です.福音書はそれより20年から40年後に書かれています.聖パウロは,復活したキリストは最初に使徒ペトロに現れたと言っています.ところが,福音書は四篇とも,復活したイェスに最初に出会ったのはマグダラのマリアだと言っています.この矛盾をどう考えるべきでしょうか?単なる見解の相違でしょうか?

そして,そもそも,聖母マリアが聖霊によって処女のままイェスを懐胎したという「神話」は,どう解釈され得るでしょうか?

ふたりのマリアは対照的です.聖母マリアは処女であり,無原罪のお宿り(つまり,マリア自身,原罪無しに生まれてきた)であり,清純さそのものです.それに対してマグダラのマリアは,もと娼婦であり,罪深い女であり,その罪をイェスに赦していただいて涙します.

このような両極端の現象を見たら,両者はその起源においてひとつであっただろうと考えてみることは,しばしば有意義です.

より神格化されているのは聖母マリアですが,しかし,より人間的,より真実味があるのはマグダラのマリアです.

わたしはこう空想します.マリアはただひとり,マグダラのマリアであった.彼女は心の底からイェスを愛していた.イェスは彼女にとってすべてだった.イェスの処刑により彼女はすべてを失った.その喪失は,彼女自身の死でもあった.彼女は φ barré の深淵,死の深淵に至ったのです.まさにそのことによって,死からの復活が成起します.

彼女は,イェスの復活を concevoir したのです.復活したイェスを concevoir したのです.この動詞には「心のなかに思いつく,着想する」という意味と「懐胎する」という意味と両方あります.「思いつく」といっても,単に空想したわけではありません.イェスは,死に至った彼女のなかの欠如から純粋徴示素として復活したのです.それが,聖霊の作用による(つまり,肉体的性行為によらない)受胎 conception の神秘の正体ではないでしょうか?

イェスの復活の後,マグダラのマリアは荒れ野に引きこもったと伝説は言います.パウロは,マグダラのマリアのことを知らなかったかもしれません.あるいは,無視しようとしたのかもしれません.しかし,結局,マグダラのマリアにおいて成起したイェスの復活の物語,つまり福音においては,マグダラのマリアはふたりの両極端のマリアの姿をとって回帰してきます.


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