2014年7月18日

7月18日の twitter : 正覚と復活


覚者と聖人と哲人と精神分析家は,いずれも,自有 Ereignis として実存する者と規定され得ます.

覚者のプロトタイプはブッダであり,聖人のプロトタイプはイェス・キリストです.

哲人は Denker 思考する者です.「思索者」とか「考える者」とかよりは「哲人」と呼ぶ方がすっきりしています.哲学者 philosophe と哲人 Denker, penseur は必ずしも同じではありません.

「思想家」という表現を忘れていました.わたしの頭のなかでは「思想家」はほとんど死語ですが,一般的にはどうなのでしょう?


ともあれ,「哲学者」が大学等で歴史的哲学者の注釈のようなものを学生たちに講ずることを生業としている者を意義するなら,哲学者と哲人は異なります.

覚者と聖人と哲人になるためには,精神分析の経験は必要ありませんが,しかし,特別な神の恵みが必要です.仏教においては「神の恵み」でなく,何と言えば良いのでしょう?特別に恵まれたカルマのおかげとでも?

しかし,そのような特別な恵みを受けていない我々のような人間にとっては,精神分析の経験は,自有になるためのひとつの手段です.そして,「自有になる」ことは,従来の宗教的な語彙で言うなら,「解脱」であり,「救済」です.

Heidegger と Lacan が用いている Ekstase, extase をどう翻訳するかを考えているうちに,わたしは「解脱」という語に行き着きました.

ekstatisch, extatique という形容詞は,抹消された存在の真理の座,ex-sistence の座にかかわります.ex-sistence の座は,徴象と影象,つまり仮象の座から見ると,外である場処です.Lacan は le réel 実在を ex-sistence と定義しますが,それは,そのように仮象に対して外であるものとしてです.

「解脱的」とは,仮象から解脱した外の座にかかわるトポロジックな形容詞です.

Ek-sistenz, ex-sistence を Existenz, existence から識別しようとするなら,単に「実存」でなく,「解脱実存」と訳します.

ブッダは覚者であり,解脱的に実存していますが,しかし,彼は死後になって初めて「成仏」したわけではありません.彼は,この世に人間として生きているうちに覚者となり,解脱しました.ということは,単純に φ barré そのものになったのではなく,ブッダも,存在の真理の現象学的構造において実存しています.ただし,一旦,涅槃の境地に達し,そして涅槃から復活したのです.

「涅槃に達する」とは,「存在の真理の現象学的構造,つまり,実存の構造が,一旦,解体する」ことです.

Heidegger は Destruktion という語を用いましたが,それを Derrida は déconstruction と言い換えました.

Lacan はもっとそっけなく séparation 分離と言います.実存の構造,存在論的構造が「解体する」とは,a が φ barré から分離することだからです.

φ barré そのものは「抹消された存在」であり,死そのものです.涅槃です.そして,そこから復活が成起します.復活においては,a はもはや全く影象的ではなく,純粋に徴象的な穴,裂けめのままです.

わたしは仏教の教理に精通していないので,「涅槃からの復活」に相当する概念が本当に 仏教のなかにあるかどうか知りません.しかし,ブッダは覚者であり,目覚めた者なのですから,涅槃の眠りから目覚めた者と言えるかもしれません.もっとも,覚者は,我々の日常的な非本自的存在様態から目覚めた者であるとも言えます.ともあれ,仏教で言う正覚もひとつの復活である,と言えるだろうと思います.

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