2024年3月11日

死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り

死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り
Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay 

ユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り


イタリアでテレビ番組を通じて若者への福音宣教をおこない,また,Padova の刑務所での司牧もおこなっている Marco Pozza 神父(Padova 司教区 司祭)による Papa Francesco インタヴュー本 Quando pregate, dite Padre nostro[あなたたちは,祈るとき,こう言いなさい : Pater noster(2017) のなかで,Papa Francesco は,Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay のなかの ある柱頭に施されている「死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリスト」の浮き彫りに 言及している.その部分をフランス語訳から邦訳する 残念ながら イタリア語の原書は 手元にないので.

インタヴュアーの Marco Pozza 神父が〈Papa Francesco 説教のなかで「我々が 自分の行いを恥ずかしいと感じたとき,その羞恥心は ひとつの恵みである」と述べていたことに〉言及したことを受けて,Papa Francesco こう言っている:

受難の物語は,羞恥心に関連するエピソードを 三つ 含んでいる.三人の人物が 羞恥を感じている.

ひとりめは ペトロである.ペトロは,雄鶏が鳴くのを聞く;そのとき,彼は 自身の内に 何ごとかを 感ずる;そして,そのとき,[囚われている]キリストが 彼の方へ 振り向き,彼を見つめる.彼の羞恥心は とても大きいので,彼は苦い涙を流す (cf. Lc 22,54-62).

ふたりめは 善き盗賊である;彼は,彼の〈不運の〉仲間[ともに十字架にかけられた もうひとりの盗賊]に,言う:「我々にとっては[この処刑は]正義だ;我々は,我々の行為の代償を支払っている;だが,彼[イェス]は 悪いことを何もしていない」.彼は,自身を罪ぶかいと感じている;彼は羞恥を感ずる;そして,かくして 聖アウグスティヌスは 述べている その羞恥心のおかげで,彼は天国を得たのである (cf. Lc 23,39-43).

最後の羞恥心 ユダの羞恥心 は,わたしを最も感動させる羞恥心である.ユダは,理解しがたい人物である;彼の人格の解釈は 非常に 数多い.だが,つまるところ,彼は,自分が何をしたかを理解したとき,「義人たち」 大祭司たち のところへ行って,こう言う:「わたしは,罪なき血を引き渡したことにおいて,罪を犯した」.だが,彼らは 言う:「それが 我々に対して 何だ? おまえは[自分で]わかるだろう」(cf. Mt 27,03-10). そして,彼は その場から 去る 彼の過ちの重みに 打ち砕かれて.もし 彼が おとめマリアと出会っていたならば,おそらく 事態は ほかの展開を取っていただろう;だが,哀れな男は その場から 去り,如何なる出口をも見出すことができず,首を吊る.

しかるに,わたしに〈ユダの話はそこで終わらない と〉考えさせることが ある.[わたしが そのようなことを 言うと]おそらく「この教皇は異端だ」と考える者が いるだろう.だが,そうではない! 

フランスのブルゴーニュ地方にある Basilique de Vézelay ある柱頭を 見にいってみなさい.中世の人々は,彫刻や絵の助けを借りて カテキズムを教えていた.その柱頭の一方の側には,首を吊ったユダを 見ることができる;だが,他方の側には,善き羊飼い[キリスト] 彼は,ユダを 肩に担いで,連れてゆく 見ることができる.善き羊飼いの唇は,微笑み 皮肉の微笑みではなく,共謀者の微笑み を浮かべている.

わたしのデスクの上のほうに,その柱頭の写真 二分割の写真 が掲げられている.それは,このことを考えさせる:羞恥を感ずるしかたは たくさん ある;それらのうちの ひとつは 絶望である;その場合,我々は 絶望した者を助けようと試みねばならない その者が まことの〈羞恥心の〉道[回心の恵みを与えてくれる〈羞恥心の〉道]を見いだせるように その者が ユダとともに[自殺に]終わる道を取らないように.

以上の〈受難の物語に登場する〉三人は,わたしにとって 大いに助けとなる.羞恥心は ひとつの恵みである.我々のところ アルゼンチン では,ふるまい方を知らず,人々に迷惑をかける者は,「恥知らず」である.

我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari 神父の 1958年の聖木曜日(4月3日)のためのミサ説教

Papa Francesco の 書斎に 飾られている 絵:死んだユダを救済するイェス(制作者 不明)

我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari 神父の 1958年の聖木曜日のためのミサ説教


20240228日に Vatican News website 公表された Papa Francesco COPAJUComité Panamericano de Jueces y Juezas por los Derechos Sociales y la Doctrina Franciscana : 社会権とフランチェスコ会教義のための 裁判官たちの 汎アメリカ委員会)のメンバー宛ての ヴィデオメッセージそのテクストを Papa Francesco 彼の執務室で 読みあげた 動画のなかで,我々は,彼のデスクの背後の壁に「自殺したユダの遺体へかがみこむキリスト」を描いた絵を見ることができる.その絵は,20210401日(聖木曜日)付の L’Osservatore Romano 紙の 記事(聖母の騎士修道女会の シスター 立子による 邦訳)によると,Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay ある柱頭のレリーフ そこには,首を吊ったユダを 善き羊飼いキリストが 救済する 姿が描かれており,それに Papa Francesco 2017年の あるインタヴューのなかで 言及している および 教皇のそのレリーフに関する省察 感銘を受けた あるフランス人信徒が 描いて,教皇に寄贈したものである.2021年の聖木曜日 L’Osservatore Romano 紙には,また,1958年の聖木曜日(4月03日)に Primo Mazzolari 神父が 成した 有名なミサ説教「我らの兄弟 ユダ」の テクストが 再録されている.そこで,以下に,そのミサ説教のテクスト および Papa Francesco インタヴューの 当該の一節の 邦訳(別記事)を 提示する.なお,Primo Mazzolari 神父の説教の邦訳は,L’Osservatore Romano 紙の web 版に 掲載された イタリア語のテクストにもとづくが,Papa Francesco インタヴューの邦訳は,イタリア語原文の仏訳にもとづく(訳者の手元には 仏訳しかないので).


我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari [1] 神父の 1958年の聖木曜日(43日)のためのミサ説教

わが兄弟たちよ,[今 朗読された福音書の一節は]まことに 死が近づいた 最後の晩餐の 場面である.外は暗く,雨が降っている.我々の教会 それは 最後の晩餐の場となる のなかでは,雨は降っていない;闇もない;だが,心の孤独がある;その重みを おそらく 主は 負ってくださるだろう.

わたしが〈主の最後の晩餐の記念として〉祝うミサの 祈りのなかで 幾度も繰り返される名が ある 恐怖を覚えさせる名 裏切り者ユダの名.

[聖木曜日のミサのなかで行われる洗足式で]あなたたちの子どもたちのグループが 使徒を演ずる 彼らは 12 いる;彼らは 罪がなく,皆 善良であり,まだ「裏切る」ということを知らない.そして,神が〈彼らだけでなく,我々の子どもたちすべてが主を裏切ることのないように〉してくださるように.主を裏切る者は,自分自身の魂を裏切り,兄弟を裏切り,自分自身の良心と義務を裏切り,そして 不幸になる.

わたしは[ユダに焦点を当てるために]しばし 主のことを忘れてみよう;あるいは,むしろ,主は〈あの裏切り それは 主の心に 果てしない苦痛を与えたはずである の苦痛の反映のなかに〉現在している.

哀れなユダ ! 彼の魂のなかで何が起きたのかを,わたしは 知らない.彼は,我々が主の受難[の物語]のなかに見出す人物たちのなかで,最も神秘的な者である.わたしは,彼のことをあなたたちに説明しようとさえ思わない.わたしは こうすることに甘んずる:わたしは,あなたたちに〈我々の哀れな兄弟ユダのために〉若干の憐れみを求めたい.

我々と彼とが兄弟であることを引き受けることに 恥を感じないように.わたしは そのことを恥ずかしいとは 思わない;なぜなら このゆえに:わたしは〈わたしが 幾度 主を裏切ったかを〉知っている.そして,わたしは こう思う:あなたたちのうち誰も 彼のことを恥じるべきではない.そして,彼を兄弟と呼ぶことによって,我々は 主のことばづかいのなかにいる.

主は,ゲッセマネで裏切りの接吻を受けた [2] とき,これらのことばによって ユダに答えた [3]それらのことばを 我々は 忘れてはならない:

友よ [4],あなたは 接吻 [5] により 人の子を裏切るのだ!

「友よ」! その語 それは あなたたちに 主の愛の無限の優しさを 言っている あなたたちに〈なぜ わたしが ここで 彼を友と呼ぶのかを〉わからせもする.

主は,最後の晩餐の場で「わたしは あなたたちを しもべとは呼ばず,友と呼ぶ」[ οὐκέτι λέγω ὑμᾶς δούλους, (…) ὑμᾶς δὲ εἴρηκα φίλους ] (Jn 15,15) と言った.使徒たちは,主の友となった.彼らは,善良であろうとなかろうと,寛容であろうとなかろうと,忠実であろうとなかろうと,いつも 主の友のままである.

我々は,キリストの友愛を裏切るかもしれない;だが,キリストは 決して 我々を 彼の友である我々を 裏切らない.我々が友と呼ばれるに値しないときでも,我々が彼に対して背くときでも,我々が彼を否むときでも,彼の目と彼の心のまえで 我々は いつも 主の友である.

ユダは 主の友である 彼が接吻を以て主に対する裏切りを遂行するときでも.

わたしは あなたたちに 問うた:なぜ 主の使徒が 最後に 裏切り者となったのか? わが親愛なる兄弟たちよ,あなたたちは 悪の神秘を識っているか? あなたたちは〈如何にして あなたたちが悪人になったかを〉言うことができるか?

このことを想起したまえ:あなたたちのうちに〈何らかの機会に[自省したときに]自身のなかに悪を見出さなかった者は〉誰もいない.我々は[我々のうちで]悪が成長するのを 見た;我々は 知りもしない なぜ 我々は悪に耽るのか,なぜ 我々は 冒瀆者に 否認者に なったのか を;我々は 知りもしない なぜ 我々は キリストと教会に対して 背を向けたのか を.

ほら,悪は,あるとき,出現した.それは どこから出現したのか? 誰が 我々に 悪を教えたのか? 誰が 我々を 腐敗させたのか? 誰が 我々から 無邪気さを 取り上げたのか? 誰が 我々から 信仰を 取り上げたのか? 誰が 我々から これらの能力を 取り上げたのか 善を信じ,善を愛し,義務を引き受け,ひとつの使命としての人生に立ち向かう[能力を].

我らの兄弟ユダを 見なさい!あの共通の惨めさとあの驚きにおける兄弟を!

だが,誰かが ユダが裏切り者となることを 助けたはずである.福音書 (Jn 13,27) こう言っている そのことばは,ユダの悪の神秘を説明はしないが,それを 我々の面前に 印象的なしかたで 置く:

そのとき,彼のなかへ サタンが 入った.

サタンが 彼に 取り憑いた.誰かが サタンを 我々のなかへ 導入したはずである.

どれほどの人々が 悪魔の仕事をしていることか 神が作りあげたものを破壊すること,良心を荒廃させること,疑念を広めること,不信感を忍びこませること,神への信頼を取り去ること,多くの人間 神の被造物 の心から 神を消去すること.それが 悪のしわざである;サタンのしわざである.サタンは ユダのなかで 作用した;そして,我々のなかでも 作用し得る もし我々が注意ぶかくなければ.

それがゆえに,主は 彼の使徒たちに オリーヴ園で こう言った 彼が彼らを近くに呼びよせたときに (Mc 14:38) —

目覚めていなさい,そして,祈りなさい 試みに陥らないために.

そして,試みは 金[かね]とともに 始まった.金を数える手.

彼[ユダ]は 言った:「あなたたちは わたしに何を与えることを 欲するか わたしが彼をあなたたちに引き渡すために?」そこで,彼ら[大祭司たち]は,彼に 銀貨 30 枚を 置いた[与えると約束した](Mt 26,15). 

だが,彼らが彼に[銀貨30枚を]数えた[数えて 与えた]のは,キリストが既に逮捕されて,裁きの場へ連れて行かれたあとである.

見なさい,何たる取引か ! 友,師,彼[ユダ]を選び,使徒にした方,我々を神の息子にしてくださった方,我々に〈神の息子の尊厳と自由と偉大さを〉与えてくださった方.それは 何たる取引か ! 銀貨 30 枚 [6] ! わずかな利得 !

おお,わが親愛なる兄弟たちよ,良心は[それを売っても]わずかな価値しか有していない ! 銀貨 30 ! そして,我々は,ときとして〈銀貨 30 枚よりも少ない値段で〉我々自身を 売る.

それが 我々の利得である.以上によって,あなたたちは ユダを 最悪の商売人に 分類したい と感ずるだろう.このような誰かが いる その者は〈キリストを売り,キリストを否み,敵側に付くことによって 商売をした〉と思っている;彼は[それによって]得たと思っている 職を,若干の仕事を,何らかの評価を,何らかの敬意を 幾人かの友だちのなかで;[しかるに]それらの者たち[彼が彼の友と思っている者たち]は〈彼らの仲間である誰かの魂のなかにある 良心のなかにある 最良のものを 持ち去り得ることを〉悦している.

さあ,あなたたちには 利得が 見えるか? 銀貨 30 ! それらの銀貨 30 枚は 何に成るか?

あるときに 明日[聖金曜日]キリストが死刑判決を受けようとするときに あなたたちは ひとりの男 ユダ 見るだろう.おそらく,彼は〈彼の裏切りが それほどの帰結に至るとは〉想像していなかっただろう.

彼[ユダ]が[キリストに対する]十字架刑[の判決]を聞いたとき,彼[ユダ]が〈彼[キリスト]が ピラトの中庭で 死に至るほどに鞭打たれているのを見たとき,裏切り者は ひとつの所作を 大いなる所作を 思いつく;彼は,あそこへ 行く;そこには,民の長たち[大祭司たち]彼らは 彼[キリスト]を買った;彼らによって 彼は買われた が,まだ 集まっていた.彼[ユダ]は,財布を手に持ち,銀貨 30 枚を 取り,それらを 彼らに 投げつける:

あなたたちは それらを 取りなさい;それらは,義人の血の代価である.

信仰による啓示 彼は〈彼の悪行の重大性が如何ほどのものであるのかに〉気づいた.もはや それらの銀貨に 価値はない 彼は それらの銀貨をとても当てにしていたのだが.金[かね].銀貨 30 枚.

良心は どれほど重要であるのか? クリスチャンであることは どれほど重要であるのか? あなたたちにとって 神は どれほど重要であるのか? 神は 見えない;神は 我々に 食べるものを 与えてくれるわけではない;神は 我々に 気晴らしをさせてくれるわけではない;神は,我々の生の理由を与えてくれるわけでもない.

銀貨 30 そして,我々は〈それらを手のなかに持っている力を〉有していない.そこで,それらは[我々の手から]離れる.なぜなら このゆえに:良心が穏やかでないところでは,金[かね]さえも 苦悩になる.

ひとつの所作が 人間の偉大さを示す所作が 起こる:彼[ユダ]は それら[銀貨 30 枚]を そこに 投げ棄てる.あなたたちは〈そこにいた人々[大祭司たち]は何ごとかを理解すると〉思うか? 彼らは,それらを拾い集め,そして 言う (cf. Mt 27,06-07) :

それらには血がついているから,我々は それらを 別にしておこう.我々は[その金で]若干の土地を買おう;そして,それを墓地にしよう 〈過越の祭 および そのほかの《我らの民の》大きな祭の間に 死ぬ〉異邦人たちのための 墓地に [7].

そして,場面は切りかわる:そこは,明日[聖金曜日]の晩 十字架が見出されるとき ;そのとき,あなたたちは 見る ふたつの死刑台があるのを:一方には キリストの十字架がある;他方には 裏切り者が首を吊る樹がある.

哀れなユダ.我らの哀れな兄弟.さまざまな罪のうちで最大のものは,キリストを売る罪ではなく,しかして,絶望する罪である.ペトロでさえ,主を否んだ;だが,次いで,彼は 主を見つめた;そして,泣き始めた;そして,主は彼を彼の職務に改めて就けた:[キリストの]代理人 (il vicario di Cristo : il papa). 使徒たちは すべて 主を見棄てたが,戻ってきた.そこで,キリストは 彼らを赦し,以前と同じ信頼を以て 彼らを改めて使徒にした.あなたたちは こう思うか ? : ユダのためにも[使徒]職は あったのではなかろうか ? — もし 彼が そう欲したならば;もし 彼が カルヴァリオの丘のふもとへおもむいていたならば;もし 彼が 彼[キリスト]を せめて〈十字架の道ゆきの通りの一角で あるいは 曲がり角で〉見ていたならば [もしそうであったならば]彼のためにも 救いは到来していただろう.哀れなユダ.

十字架と〈首を吊った者の〉樹 ;[イェスを十字架に打ちつけた]釘 と[ユダが首を吊った]縄 それら ふたつの終りを 対置してみたまえ.あなたたちは わたしに こう言うかもしれない:「一方は死んだ;そして,他方も死んだ」.だが,わたしは あなたたちに 問いたい:あなたたちが選ぶ死は どちらか ? キリストのように 十字架のうえで死ぬ キリストの希望のうちに ことか,あるいは,首を吊って死ぬ 絶望して,面前には何も無く 者の死か?

もし 今宵 それは[最後の晩餐の]親密さの晩であるはずであった わたしが あなたたちに かくも苦悩に満ちた省察を もたらしたとすれば,わたしを赦したまえ.だが,わたしは ユダのためにも 善を欲する[ユダをも愛している];彼は わが兄弟ユダである.わたしは,今宵,彼のためにも 祈りたい なぜなら このゆえに:わたしは裁かない;わたしは断罪しない.[もしそのようなことをすれば]わたしは わたし自身を裁かねばならないだろう;わたし自身を断罪せねばならないだろう.

わたしは,こう思わずにはいられない:ユダに対しても,神の憐れみ,あの愛の抱擁,あの「友よ」という語 それを 主は〈彼[ユダ]が 彼[主]を裏切るために 彼に接吻している間に〉彼に 言った —…その[「友よ」という]語が 彼[ユダ]の 哀れな心のなかに 入りこまなかった 考えることは,わたしにはできない.

そして,おそらく,最期の瞬間に,その[「友よ」という]語を思い出しつつ,そして,主が彼の接吻を受けいれたことを思い出しつつ,ユダも こう感じただろう:主は なおも 彼のために善を欲しており[彼を愛しており],そして,ほかのところにいる主の弟子たちのなかに彼を迎え入れてくれる.おそらく,彼は[イェスとともに十字架に架けられた]ふたりの盗賊とともに[天国へ]入った 最初の使徒であろう.その[ユダとふたりの盗賊から成る]行列は,たしかに,そう考える者もいるだろうように,神の息子を讃えるものには見えないかもしれないが,しかし,それは 彼の憐れみ偉大さである.

そして,今 ミサを続けるまえに,わたしが,我々のうちで 主の使徒たちを演じている 我らの子どもたち[の足]を洗いつつ,そして,彼らの無邪気な足に接吻しつつ,最後の晩餐におけるキリストの所作を繰りかえす 今,わたしが つかのま ユダのことを思うことを 許したまえ あのユダを わたしは わたし自身のうちに 有している;そして,おそらく あなたたちも あなたたちのうちに あのユダを有しているだろう.そして,わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ 死の予感に苦悩するイェスに,我々を あるがままに 受けいれてくださる イェスに ;わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ:復活祭の恵みとして,わたしを友と呼びたまえ.復活祭は,あの[「友よ」という]ことばである そのことばは,わたしとしての哀れなユダに向けて言われたものであり,あなたたちとしての哀れなユダに向けて言われたものである.

これこそが 喜びである:キリストは 我々を愛している;キリストは 我々を赦す;キリストは〈我々が絶望することを〉欲しない.たとえ 我々が 常に 彼に対して背を向けるときも,たとえ 我々が 彼を冒瀆するときも,たとえ 我々が 我らの生の最期のときに 司祭を拒むときでも,このことを思い起こそう:彼にとっては,我々は いつも 友である. 

******
訳注:

[1] Primo Mazzolari (1890-1959) は,イタリアのカトリック司祭,文筆家,反ファシズム活動家.1912年に Lombardia 地方の Brescia 教区で 司祭に叙階された.第一次世界大戦には 志願兵 および 従軍司祭として 参加した.1932年,Bozzolo 小教区の司祭に任命され,死のときまで そこで司牧した.第二次世界大戦中は,ユダヤ人やレジスタンス活動家を匿った.彼自身 逮捕されたこともあった.戦後,Associazione Nazionale Partigiani d'Italia[イタリア パルティザン 協会]は,彼の功績のゆえに,彼をパルティザンと認めた.彼の反差別主義と平和主義の考えは,当初は 教会内で批判されていたが,彼の晩年には 肯定的に評価されるようになり,1957年に ミラノ大司教(のちの教皇パウロ 世)によって 説教するよう招かれ,また,1959年には 教皇ヨハネ 23 世により 個人接見に 迎えられた.彼は 第 ヴァチカン公会議の精神を先取りしていた と評価されている.

[2] 三つの共観福音書においては ユダは イェスに 接吻するが,ヨハネ福音書においては ユダはイェスに接吻しない.

[3] マルコ福音書 (14,45) においては,ユダは,イェスに「ラビ」と呼びかけ,そして,彼に接吻するが,イェスは何も答えない.マタイ福音書 (26,49-50a) においては:

49 καὶ εὐθέως προσελθὼν τῷ Ἰησοῦ εἶπεν, Χαῖρε, ῥαββί, καὶ κατεφίλησεν αὐτόν.
50a ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῷ, Ἑταῖρε, ἐφ᾽ ὃ πάρει.

49 そして,彼[ユダ]は まっすぐに イェスのところへ 来て,言った:「こんばんは,ラビ!」そして,彼に接吻した.
50a すると,イェスは 彼に 言った:「友よ,それがためにあなたがここにいるところのこと[それは,わたしを引き渡す[裏切る]ことだ]」.

そして,ルカ福音書 (22,47b-48) においては:

47b καὶ ἤγγισεν τῷ Ἰησοῦ φιλῆσαι αὐτόν.
48 Ἰησοῦς δὲ εἶπεν αὐτῷ, Ἰούδα, φιλήματι τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου παραδίδως;

47b そして,彼[ユダ]は イェスに近づいた 彼に接吻するために.
48 すると,イェスは 彼に 言った:「ユダよ,あなたは 接吻を以て 人の子を 引き渡す[裏切る]のか?」

つまり,Don Primo は,Lc 48 の「ユダよ」のところに Mt 50a の「友よ」を代置している.

なお,無理やり「こんばんは」と訳した ユダのイェスへの挨拶のことば “Χαῖρε” は,直訳すれば「喜びたまえ」であり,受胎告知の際に大天使ガブリエルがマリアに呼びかける際に用いた挨拶の語と同じものである;実際,Vulgata では Mt 26,49 の挨拶は “Ave, Rabbi !” と訳されている.

[4]「友よ」という呼びかけの原語は “Ἑταῖρε” である.名詞 ἑταῖρος は「仲間,同志」であり,呼格で用いられるときは,親しみのこもった「友よ」となる.

[5]「接吻する」と訳される動詞は φιλέω または καταφιλέω である;動詞 φιλέω 形容詞および名詞 φίλος[友として(友のように)親しい,友]の派生語であり,その原義は「友愛という意味において愛する」であるが,「友愛の徴として接吻する」を派生的な意味として 有している.動詞 καταφιλέω より強められた意味において「接吻する」である.また,動詞 φιλέω から派生した名詞 φίλημα が「接吻」の意味で Lc 22,48 において 用いられている.そのように,ギリシャ語では φίλημα[接吻]という語に φιλέω[愛する]を見てとることができる.したがって,Lc 22,48 “φιλήματι παραδίδως;”[あなたは 接吻を以て(わたしを)引き渡す 裏切る のか?]というイェスの言葉は,「あなたは,わたしを,愛の徴を以て 愛しているのに あるいは 愛しているがゆえに 裏切るのか?」とも読むことができるだろう.

[6]「葡萄園の労働者」の譬え (Mt 20,01-16) におけるように,その銀貨が ローマ帝国のデナリオン銀貨であれば,銀貨 30 枚は 労働者の 30日分の賃金である;だが,おそらく 大祭司とユダとの間の取引は ユダヤ人たちのシェケル銀貨で成されたであろう;そうであれば,銀貨 30 枚は 奴隷ひとりの賠償金の額である (cf. Ex 21,32) :

もし 雄牛が ひとりの奴隷[男]または ひとりの女奴隷を 角[つの]で突いた[突いて 死なせてしまった]ならば,彼[雄牛の所有者]は 奴隷の主人に 銀貨 30 シェケルを 与えるべし;そして,その雄牛は 石打に処されるべし.

つまり,ユダは〈彼の友であり主であるイェスを売ったことによって〉奴隷ひとり分の代価 それは 大した金額ではない を受け取ったのである.

[7] Don Primo の自由な引用.より正確には (Mt 27,06-10) :

6 そこで,大祭司たちは,銀貨を取って,言った:

それらをコルバン[神殿の献金,それらを保管しておくための金庫]へ入れるのは 適法ではない なぜなら,それらは 血の代価であるから.

7 そこで,彼らは,相談して,その銀貨で 陶工の土地を 買った 異邦人たちの埋葬のために.
8 それがゆえに,その土地は「血の土地」と呼ばれた 今日に至るまで.
9 かくして,預言者イェレミアによって言われたことが 成就した:

そして,彼らは 銀貨 30 枚を 取った それらは,イスラエルの息子たちによって値ぶみされた者 彼らが値ぶみした者 代価である
10 そして,彼らは,それらを 陶工の土地[を買う]ために 与えた[支払った]主がわたしに命じたとおりに.

翻訳および訳注:ルカ 小笠原 晋也

2024年2月27日

救済に関する神の意志と必然性 そして 無償の救済に対して如何に感謝するか

William Brassey Hole (1846-1917) : Jesus and Zacchaeus

救済に関する神の意志と必然性 そして 無償の救済に対して如何に感謝するか



223 金曜日の「今日のイェスのことば」の説教で,Raniero Cantalamessa 枢機卿は,ルカ福音書で物語られている 徴税人の長 ザアカイの エピソード (19,01-10) から,v.05 イェスのことばを取り上げ,それを イタリア語で こう表言していた:

Voglio venire a casa tua.

わたしは あなたの家に 来たい.

つまり,そこには イェスの意志が 表現されている.それは,Cantalamessa 枢機卿の 解釈 のちほど見るように,まったく正当な 解釈 である.

しかし,原文では,そこにおいて表現されているのは,イェスの意志ではなく,ひとつの必然性である:

Ζακχαῖε, σπεύσας κατάβηθι, σήμερον γὰρ ἐν τῷ οἴκῳ σου δεῖ με μεῖναι.

ザアカイよ,急いで降りてきなさい;なぜなら このゆえに:今日 わたしがあなたの家に滞在することは,必然的である.

その文におけるギリシャ語の δεῖ の意義は,フランス語の il fautでなければならない, 必要である,必然的である]の意義と ぴったり 重なりあう.

では,なぜ その日にイェスがザアカイの家に滞在することは 必然的であるのか? それは,父なる神がそう欲するからである;それが 神の意志 (θέλημα, voluntas) だからである

そして,イェスの意志は 父の意志であるから,父の意志による必然性は イェスの意志による必然性でもある.その限りにおいて,イェスが「わたしがあなたの家に滞在することは 必然的である」と言うとき,それは「わたしは あなたの家に 滞在したい」にもとづいている.そして,それゆえ,Cantalamessa 枢機卿の解釈は まったく正当なものである.

ところで,既成の邦訳聖書では,そのイェスのことばは どう訳されているだろうか?

今日 わたしは あなたのところに泊まるつもりだ(フランシスコ会訳).

今日は,ぜひ あなたの家に泊まりたい(新共同訳).

今日は,あなたの家に泊まることにしている(聖書協会共同訳).

わたしは 今日 あなたの家に留まらねばならない(新約聖書翻訳委員会訳,岩波書店版).

残念ながら,その節に関して注を付してくれている邦訳聖書は 皆無である 本当は,このような訳注が欲しいところであるが:

原文における必然性は 神の意志を表しており,そして,神の意志は イェスの意志である.

もし そのような訳注が付されていたならば,新共同訳の「是非 あなたの家に泊まりたい」は,Cantalamessa 枢機卿の解釈とも一致する たいへん よい訳だ と言えるだろう.

そして,もし イェスが 罪人であるザアカイに「わたしは 是非 あなたの家に 泊まりたい」と言ったのであれば,彼は 罪人である我々にも「わたしは 是非 あなたのうちに 入ってきたい」と 欲している eucharistia のかたちにおいて.それゆえ,我々も,「喜んで彼を迎えた」ザアカイ (cf. Lc 19,06) のように,キリストのからだを喜んで受け取り,彼に 我々のうちに 入ってもらう.

ところで,何のために イェスは ザアカイの家に そして 我々のうちに 入りたい 欲しているのだろうか? 神の意志は 根本的に言って 何に存するのか?

残念ながら,日本人クリスチャンたちの大多数は このことに気づき得ないだろう:我々が「主の祈り」において「みこころ[あるいは みむね]が 天に行われるとおり 地にも 行われますように」と 祈るとき,我々は 実は「神の意志の〈地上における〉実現」を願っているのである.そのことを日本語訳の「主の祈り」から読み取ることは ほぼ不可能であるが,原文のギリシャ語 (γενηθήτω τὸ θέλημά σου ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς) ラテン語訳 (fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra) 英訳 (thy will be done on earth as it is in heaven) においては,そのことは まったく明瞭である

あなたの意志 (θέλημά σου, voluntas tua, thy will) 成起しますように 天におけるごとく,地においても.

では,そのとき かかわっている 神の意志は 如何なるものか?

その答えは『カトリック教会のカテキズム』の「主の祈り」の説明 (#2822) 明確に 提示されている:

我らの父の意志は これである:「すべての人間たちが 救われること;そして,真理を識るに至ること」(1 Tm 2,03-04).

そして,実際,イェスの「わたしは あなたの家に 来たい」という意志によって,ザアカイにおいて,彼自身がまったく予期していなかったことが 成起する:すなわち,彼は,不意に 回心し (cf. v.08), 救済される イェスがこう宣言しているように (v.09) :

今日,救済が この家に 成起した なぜなら,彼[ザアカイ]も また アブラハムの息子であるから.

主の意志にしたがって キリストを我々のうちに迎え入れることによって,我々は,回心し,そして 救済される それは まさに eucharistia 秘跡の 意義の ひとつである.

そして,その前提条件は,キリストの 十字架上での死と 死者たちのなかからの復活である.神の意志 それは すべての人間たちの救済に 存する は,十字架上で 成就されている.実際,ヨハネ福音書 (19,28-30) において こう述べられている:

[十字架上で]イェスは〈書 (Tanakh) が成就されるために すべてが既に成し遂げられた (ἤδη πάντα τετέλεσται) ということを〉知って […], こう言った:成し遂げられた (τετέλεσται).

そして,『カテキズム』(#2824) は,こう述べている:

キリストにおいて,そして,彼の人間的意志によって,父の意志は 完璧に かつ 決定的に[取り消し不可能な様態において]成就された.

つまり,そこに父の意志が存するところの〈すべての人間たちの〉救済は,イェスの受難と復活によって 既に 実現している(それゆえ,我々は その善き知らせ — 福音 — を 宣べ伝えたい と思う).

しかし,如何にして そのようなことが 実現し得たのか ? このことによって:救済は,新約においては,旧約におけるように 我々が律法を完璧に実行することによって 得られるのではなく,しかして,神が 無償で(たとえ 人間が何もしなくても)すべての人間を 我々すべてを 救済してくれたのだ 神が 神自身の息子を 神自身に いけにえとして 献げたことにより.それが,イェスがもたらした 救済論の革命である.

神に献げるいけにえを神自身が用意する そのことは〈アブラハムが 神の命令に応じて 彼のひとり息子イサクを いけにえとして 神に献げようとする 創世記 22 章において〉予告されている そこにおいて,アブラハムは そうと知らずに こう預言する (cf. v.08) :

神は,彼自身のために,焼尽のための羊を 用意するだろう.

そして,実際,神は,アブラハムが彼の息子イサクを屠るのを 中止させつつ,一頭の雄羊を 彼に 提供する それを焼尽として献げさせるために (cf. v.13).

神が みづから 彼のひとり息子 イェスを いけにえとして 彼自身に 献げた;そして,それによって 我々は 無償で 救済された そのことを知ったとき,我々は どうするか? 勿論,神に感謝しないではいられない.では,どのように感謝するか? 彼にいけにえを献げるか? それは もはや無用である.しかも,神は こう言っている (Hs 6,06 ; Mt 913 ; 12,07) :

わたしは [ חֶסֶד , ἔλεος, caritas, misericordia ] 欲する いけにえではなく.

それゆえ,我々は 愛を以て 神に感謝する それが 感謝の祭儀である.そして,それだけでなく,隣人愛によっても 神に感謝する;なぜなら,我々は,隣人に対して愛のおこないを成すとき,実は 神に対して愛のおこないを成しているのだから:

Amen, わたしは あなたたちに言う:あなたたちは,わが最も小さき兄弟たちのひとりに[隣人愛のおこないを]成したとき,そのつど,わたしにそれを成したのだ (Mt 25,40).